ミゼン7
「うぉう!これは上物だな!」
クロ―ヴィスは入室と同時にベッドに飛び込んだ。軽い体重がシーツの中の空気を大いに膨らませる。
萎んで崩れたシーツの中で、満足げに大の字に眠る彼の横を、げんなりとした様子のルクスが通り過ぎる。彼は丸まった背中のまま、全体重をかけて、ベッドに倒れ込んだ。
「クロ坊は元気だねぇ……」
「じーさんみたいになってるぞ。大丈夫かよ?」
「大丈夫に見えるほど、君の目が節穴とは思わなかったよ」
「だから聞いてんだろうが」
ルクスは唸り声を上げながら、ベッドにうつぶせになる。彼の脳内は、一日の疲労で体の衰えを感じた三十路の男らしい思考で溢れていた。
クロ―ヴィスは身を起こし、ルクスの方を見る。彼の軽く痙攣した脚を見て、小さく溜息を吐いた。
「ほら、足出せ」
ルクスはもぞもぞとズボンを脱ぐ。クロ―ヴィスは露になった脚に薬品を塗り込んでいく。
「……なんか、すぅすぅするねぇ……」
「気休めだぞ」
クロ―ヴィスは脚をマッサージしながら、薬を塗りこむと、今度は膝下のくぼみを確認して指で押し込んだ。
「いったい!何したの!?」
「黙ってろって。疲れに効くツボ押しただけだ」
彼はそう言うと、何度もそのツボをマッサージする。ルクスの悲鳴に合わせて、時折足の裏にあるツボなどを押しながら、彼の体調を確認した。
「……貴族様よぉ。お前さ、いいもん食ってる割に胃とか食道ばっかり悪いみたいだぞ……」
「そうかい。……健康には気を遣っていたんだがね」
暫くすると、ルクスは無抵抗になり、彼のマッサージに身を任せるようになっていた。
「いいか。カペル王国の健康法ってのは間違いだらけだ。貴族なら鶏肉くっときゃいいわけでもねぇ、野菜もちゃんと摂れ。地べたに近い程下位の食べ物って、どんなオカルトだ」
「ははは。正直、納得いかない部分もあるよ、ああいうのは」
「分かってるんなら一寸は気ィ遣えよ」
「でもね。肉をたらふく食べられるっていうのは、若さの証だからね」
ルクスは手の甲に顎を乗せながら、上機嫌に言う。暫くマッサージを続けていたクロ―ヴィスは、唐突に太腿をぱしん、と叩いた。
「いったい!何するのさ!」
「いやぁ。若作りが過ぎるな、と思ってな」
クロ―ヴィスはニヤリと笑う。ルクスは非難の瞳を諦観に変え、再び顎を手に乗せた。
「君もいずれこうなるよ……30も過ぎれば、体中が軋んでくるのさ」
「そうなったときはお前みたいに無理しないから大丈夫だがな」
二人は暫く無言でマッサージを続ける。時折響くルクスの呻き声は、彼の肉体がかつてより衰えていることの証明でもあった。
「……僕は何を見せられてるんですか?」
「えっ……」
ここは三人部屋である。当然、ピンギウはこの部屋に彼らといたわけである。クロ―ヴィスはルクスの露出した太腿を勢いよく叩き、誤魔化すように大笑した。ルクスの耳をつんざく悲鳴が、部屋中に響き渡る。
「ピンギウもマッサージするか?楽になるぞ!」
「悪魔のささやきだ!そいつはこうやって時々太腿を叩いて苦しめるのさ!」
「お前、折角気を遣ってやったのに!おら、おら!」
クロ―ヴィスは何度も太腿を叩く。そのたびに、打楽器のような鈍い悲鳴が何度も部屋の壁に反響した。
そして、隣の部屋から壁を強く叩く音がする。瞬間、部屋は静寂に沈み、ピンギウは溜息代わりに酒瓶を仰いだ。
「まぁ、何ですか。お二人は仲が良くていいですね」
「「どこがだ!」」
二人が叫ぶと、再び壁が強く叩かれる。壁の殴打に、叫んだ二人組は過剰に身を逸らせた。
ピンギウは静かに笑う。
「そう言うところですよ。僕が言ってるのは」
二人は顔を見合わせ、すぐにそっぽを向く。ピンギウは酒の肴と言わんばかりに、二人の様子を目を細めて眺めている。
「……そう言うお前だって、バニラとは仲いいだろうが」
指摘を受け、彼は酒瓶を傾ける。口の中一杯の酒を飲み込んだ後、彼は静かに微笑んで見せた。
「……はじめは嫌いだったんですけどね。自分を見るようで」
灯りとしてしか機能していないアロマキャンドルの火が揺れる。ピンギウの自嘲気味な笑みは、逆光を受けて二人からはよく見られない。
「……でも違いました。彼は、僕より随分と、凄い人ですよ」
「それは、違うな。あいつの場合、お前と同じ場所から少し動いたんだよ」
「そう、彼の視界は一気に開けた。勿論、それが正解だとは限らないけどね。彼は今後苦労することになるよ」
ルクスはそう言うと、無防備な脚をゆっくりと丸め、膝を抱えて座る。それに合わせて、クロ―ヴィスも自分のベッドに飛び乗った。
「人生は選択の連続だ。楽な方へ流れるのも良し、茨の道を歩むのも、また良し。だがね、ピンギウ、君は自分の事をもう少し愛してあげるべきだ。他ならぬ神より賜ったその血肉、その思想、その良心、その振舞いの高潔さを」
クロ―ヴィスはピンギウのベッドに飛び乗り、彼の足の裏を弄って押さえた。激痛に思わず小さな悲鳴を上げたピンギウの顔を見て、彼はニヤリと笑って見せる。
「今のは膵臓のツボだ。酒飲み過ぎんなよ?」
ピンギウは酒瓶で自分の体を支える。もう空になった瓶を入れた麻袋は、取り換えたばかりだというのに一杯になっていた。
「君は自分がつまらないと思っているようだが、違うよ。ここにいる人間は誰一人、君をつまらないとは思っていない」
ルクスは吟遊詩人が歌うように、テンポよく語る。クロ―ヴィスはピンギウに顔を近づけ、無邪気に歯を見せて笑った。
「そうじゃなけりゃ、同じ部屋なんて御免だね」
ピンギウは酩酊していた。悪酒のせいと身を委ねることも出来ただろうが、彼は自分の目の前にあるものを、そう言う形で蔑ろにも出来なかった。彼は静かに酒瓶に蓋をして、大切に窓際に置く。
瓶に映った彼の醜い顔には、細い目があり、丸い鼻があり、つやのある林檎色の頬があった。
(まぁ、彼らの言うとおりにするのが無難かな)
ピンギウは自嘲気味に笑う。クロ―ヴィスは再び膵臓のツボを強く押さえた。
「イッダダダ!やめてくださいよ、それ!」
「こいつは禁酒が必要だな」
クロ―ヴィスは両の手を開けて笑う。夜は徐々に更け、バニラもそろそろ天体観測を始める頃だろう。