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ミゼン6

 一同は参拝を終えると、即座に宿へと向かった。この疲労では、とても野宿や酷い宿では休めない。彼らは二部屋で五人が宿泊できる、十分な広さのある部屋を借りた。こうした快適な宿は、上流階級の大旅行参加者の使者に高値で借りられることが多いので、少々値が張った。それでも、今の彼らには対価を支払って部屋を借りる価値があった。


 そして何より、予算を上回ってでも、快適な宿で休まなければならない人物が一人いる事は疑いないことであった。


「足が壊れちゃう!」


「チェックインしてから何回目だ、うるせぇな!さっさと部屋に上がればいいだろうが」


 ルクスはエントランスの暖炉の前で、脚を揉みながら唸り続けていた。


「もう階段は嫌なんですぅ!」


 バニラは苦笑いをしながら、部屋割りを確認する。ルクスと同様に暖炉の前で項垂れているモーリスと二人部屋での宿泊となっていた。


 高齢のモーリスは深い溜息をつき、往復四百段分の張った太腿を撫で摩っている。

 彼は、恩師に報いるためにも、その手を貸すべきだろうと考え、モーリスの前に片膝をついて手を差し伸べた。


「先生、手を貸しますから、部屋に行って休みましょう」


「あぁ……すまないね」


 モーリスはバニラの手を借りて立ち上がる。その様子を見たルクスは、一層大きな声で喚いた。


「バニラ君優しい!クロ坊も見習って!」


「うっせ、自分で登れ!」


 ピンギウが深い溜息をつく。バニラが彼に「お先に」と言うと、彼は手を挙げて応じた。


 階段は二人で登るにはやや狭い。バニラはモーリスに肩を貸し、彼の足が持ち上がるペースに合わせて前進する。ゆっくりと、一段ずつではあったが、五分かけて階段を登りきると、彼は鍵に示された部屋へと赴いた。


 室内は快適な二人部屋であり、布団は幅広でふかふかと柔らかく、心地よい眠りを手助けする。バニラが蝋燭に火を灯すと、甘い香りが部屋に広がり始めた。


「アロマキャンドルだ……!」


 バニラは思わず声をあげる。香水等のような香り高い商品は、貴族向けの高級品であり、彼には無縁のものであった。


「いい宿だ。ルクス先生もよほど休みたかったと見えるね」


 モーリスはベッドに深く沈み込み、満足げな吐息を吐いた。

 彼はそのまま重い瞼を閉ざし、吸い込んだ香りの甘さに再び細く目を開いた。


「えぇ。先生は、大丈夫ですか?」


「あぁ。ありがとう」


 バニラも、モーリス同様に静かに横になる。脚全体が羽毛に包まれる感触の心地よさに驚く。同時に、花の香を練り込んだアロマキャンドルが、形を持たぬままに安らぎを齎す。


「バニラ君。旅は、どうかね」


「楽しいです。自分の知らない世界が広がっている気がして」


 二人は瞼を閉じたまま、各々の応答を待つ。シーツの衣擦れの音が、心地よく寝返りをするのを想像させる。


「そうか。私もね。真面目だった頃には見えない景色があるのを、旅を通して学んだものだ。君は真面目だが、だからこそ、全てを学ぶ姿勢に預けるべきではない。見て、心で感じ、そして」


 モーリスは恥ずかしそうに咳払いをする。バニラは静かに、続きを待った。


「よく、遊ぶと良い」


「……よく遊ぶ」


 バニラは、カルテやチェスで戯れた道中のことを思い出す。彼が大学にいる間、そうした遊びは完全に不要なものとして、稼ぎ、研究に勤しむ事を続けていた。そうして過ごした時間の充実感は、過ぎ去った旅の短い時間よりも濃密なように思えたが、それだけであった。バニラは静かに瞼を開く。


 キャンドルが照らす赤い壁、そこに映る自分の影は長くやや歪んでおり、甘い香りが鼻を掠める。脚の筋肉が張る、重石を乗せられたような痛みとだるさを、シーツとベッドが柔らかく受け止める。

 彼の五感のすべてが、新鮮な今の姿を受け止めている。図書にしがみつき、貪るように読む楽しみとは少し違う、曖昧だが胸に響く感覚。椅子に座る感覚さえ、以前とは違うように思われた。

 モーリスは静かに寝返りを打つ。口から、子供のようなすぅ、という寝息が漏れている。


「これが大人になるという事なら、悪くはないかもしれませんね」


 バニラはそう言って、跳ね返る声に微笑みを返した。

 大きな欠伸が漏れ、彼はキャンドルを消す。心地よい残り香がかすかに鼻腔を擽った。そのまま横になり、ゆっくりと、瞼を下ろす。星の出る前だと言うのに、彼はゆっくりと微睡に沈んでいった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 要所要所で感想を残そうと思いながら、つい先を読み進めてしまい、気がつけばこんなところまで来てしまいました。 ル・シャズー編を読むまで、ピンギウになんとなく苦手意識を持っていて。苦手というの…
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