ラ・サーマ2
ラ・サーマの古い木造教会と言っても、ほとんどの者が名を知らないだろう。ラ・サーマにおけるジェイン信仰は教会と密接に関わるにもかかわらず、その舞台はラ・サーマの木造教会ではない。町全体を覆うマイルストーンとしてのジェイン像は、少なくない観光客を集める祝祭の日には盛況するが、その中心である木造教会に、人が立ちよることは少ない。それは、この教会が徹頭徹尾市民たちに密着した素朴な信仰を集める教会だからであり、権力者としての司祭の顔もほとんど見られることは無い。この教会の名前をほとんどの人が忘れてしまっている事からも、その知名度のなさを窺い知ることが出来た。
「……木の匂いだ」
バニラは開口一番にこう言った。それは、これまでの教会のように一部に光を集める演出や、壮大な光の彩色による演出がそれほどなく、壁が視界を暗くするために役立つものだったからだ。ぎぃ、と歩くたびに床が軋むのも、どこか不気味な印象を受ける。
クロ―ヴィスはバニラの袖を握り、暗闇の中を歩く助けとしていた。
「おい、雰囲気あるぞ……」
「照明などを付ける時間でもないが、やはり少し暗いね」
モーリスは柱をそっと撫でながら言う。客人に驚いた様子の司祭は、無防備な大きな尻を持ち上げて、客人たちをもてなす準備を始める。普段から呑気な性格のためか、突き出た腹を摩り、無礼な学生を温かく迎え入れた。
「旅人とは、珍しい。ぜひ、ゆっくりして行きなさい」
「素朴でよい教会ですね」
モーリスは穏やかな巨人と握手を交わす。司祭は嬉しそうに頷き、教会にある構造を説明し始めた。
「ここには釘を使われていない構造がいくつもあるんですよ。見たところ質素に見えるかもしれませんが、木造技術の贅を尽くした一級の建築物です」
バニラは床を軋ませながら教会の壁をなぞる。確かに、この建造物のつなぎ目には、釘の跡らしいものは一切残っていない。
「え、面白れぇ。これ、木を組んだだけで組まれてるぞ!」
「えぇ、凄いでしょう?でも少し静かにした方がいい。怒られるからねぇ、坊や」
司祭は、クロ―ヴィスが興奮気味に叫ぶのを、穏やかな表情で諫める。クロ―ヴィスは短く詫びを入れたが、司祭は相変わらず柔和に微笑みながら、彼の隣に屈みこんだ。
「先ほど言ったとおり、組み立ての際にはほとんど釘を使わないで作られた教会です。できた当初は釘よりも矢を求められていたのだと聞いています」
「ほぉ。これが残っているということ自体が既に奇跡だが……むしろこの建築様式がこの目で見られるという事が更なる奇跡だ」
「おい、バニラ!ここ凄いぞ!はめ込み式なんだよ、これ!」
「金輪継と言う、柱を組み合わせる構造ですね」
バニラは呼ばれた方へと急ぐ。柱の継ぎ目を見ると、そこには同じ形に切られた木材がつながれているのを見る事が出来る。バニラはこの構造物がこうした技術によって支えられていることにまず驚き、続けて司祭に思いつくままに質問をする。
「この教会……築何年ですか?」
「千年は経っていますね。もっと前かもしれません」
「千年も前にこんな技術があったというのですか!?」
「とんでもないオーパーツだなぁ!」
二人は驚愕のあまり叫ぶ。即座に醜態を晒した二人は途端にしおらしくなったが、司祭は腹を一つ叩いて大笑した。
「次気を付ければいいですよ。ですが、技術と言うのは一本の道でつながれるものではないんだなと、そう思えてきませんか?」
カペル王国において石造の建築物はその威容を示すのにこの上ない役割を担ってきた。しかし、彼らの目前にある建築物は、強固な石の教会にも劣らない技術の粋が込められている。バニラはわずかに色の異なる継手に軽く触れた。
「今では、もう、この構造を継承する人はいません。私ももちろん、正確に継手や継ぎ目を測るだけの、測量の精度を持っていません。事実上、カペル王国において、この建築物だけが、かつての姿のまま残っているのです」
‐‐それは悲しいことだ‐‐
バニラは眉を下ろす。これらの技術は、安定して鉄が供給されるようになれば、容易に廃れてしまう危うさを持っていたのだろう。石の構造物の重厚さに圧倒される人々が、この構造を忘れさせてしまったのかもしれない。
それでも、この素朴な青年は、この建造物が残り続けたラ・サーマという小都市に、特別な感銘を受けた。祭壇は、この継手から遥かに遠く思える。そこに飾られているのは、遠近法成立以前の、重視する対象物を拡大する絵画である。それはかつて旅の中で見たジェイン・コレクションに見られたものと同じように、写実的ではないがこの上なく宣伝力の強い絵画であった。
「この、ラ・サーマの教会には、今でも人は訪れるのですか?」
「もちろんですよ。この建物を何十年もかけて作り上げたのは、他ならぬこの地の人々なのですから」
「市民だけが知る町の誇り、ってわけか。正直、脱帽するよ、こりゃあ」
司祭は満足げに頷く。それが、市民の総意であるかのように。
バニラは、教会の隅々にある様々な継ぎ目を観察し、司祭から説明を受ける。そのどれもが新鮮な驚きに満ちていたが、同時に、当時の人々にも思いを馳せずにはいられなかった。
信仰が齎すものが、心の安息だけであるべきか……。「科学」は信仰の友であり、人々はこの名も無き教会のために、どれだけの篤信を示しただろうか?バニラの中には、技術を惜しみ、これを解き明かしたいという好奇心、さらにこの素晴らしい建造物に込められた思いの丈を推し量りたいという思い、いくつもの気持ちを晒したままで、建物の隅にある幾つもの叡智に教えを乞うていた。
「最後に、一つだけ質問をしても良いですか?」
夕刻の去り際、バニラはそう静かに尋ねた。重い腹を支えたままで伸びをしていた司祭が答える。
「もちろん」
「貴方は、教会で出世したいとは思わないんですか?」
司祭は静かに微笑む。彼には、夕焼けの逆行を受けたバニラが、自分と同じような表情をして見えた。
「えぇ。この場所にいられる限りは」
バニラはやはり微笑んでいる。まだ残ったままの水溜まりには、茜色の光が優しく降り注いでいる。傾く月と太陽が、からりとした快晴の空をまたぎ、地平線の隙間から、地上を覗き込む。
「今日は、ラ・サーマの人達が、簡単にジェインを処刑し、処刑したジェインを信仰することが出来た理由が分かった気がします」
それは、決して良い出来事ではなかっただろう。それでも、その裏には、市民がずっと抱えてきたものがあるのだという事を、バニラは十分理解していた。
空を闇が飲み込もうとする。引き摺り下ろされた太陽は、翌日にはけろりと顔を覗かせる事だろう。雨上がりのぬかるみの道に、青年たちと教師の、長い影が伸びていた。