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ラ・フォイ9

 昼下がりの部屋に大きないびきが響く。突き出た腹を掻いたピンギウが寝返りを打つと、宿はかすかに軋んだように思われた。


「行かなくてよかったのですか?ルクス先生」


 空色は澄んだ青で、このままいけば学生達は光主祭壇の威光にあり付ける事だろう。その時に何を思うかは、学生たちの感性にのみ委ねられるべきである。


「えぇ。偶には静かに……」


 ピンギウが大きないびきをかく。ルクスは苦笑し、水差しにある湯冷ましを少し飲んだ。


「穏やかな昼下がりを過ごすのも良いでしょう」


 モーリスは窓の外を眺める。快晴の空の下で、水路を跨いだ先にあるバシリカの聖堂の低い三角帽子が、家々の間から顔を覗かせている。


「バシリカ聖堂の至宝……。バニラ君はともかく、クロ坊……失敬。クロ―ヴィス君には些か刺激が強いものになるのかなと」


「私は師として彼を教え導いていますが、時に、彼は危険な厳格さを持っているように思う事があります。穏やかなバニラ君がいるので荒事になることは無いでしょうが、何か心境の変化が起こることはあるでしょう」


 ルクスはモーリスに水差しを渡す。彼は少し躊躇ったがこれを受け取り、を軽く注ぎ口拭って乾いた喉に流し込んだ。音の立たない飲み物を慎重に飲み込んだ彼は、再び注ぎ口を拭ってルクスに返す。年若き博士はこれを静かな笑みで受け取り、床の上に置いた。


「暫く旅を続けてみて、バニラ君には随分と変化があったのではないかな、と思います」


 ルクスは青空の向こうにある星を愛でるように、目を細めた。

 瞬くにはまだ早すぎる青さは、焦ることなく、しっかりと、太陽を西へと運んでいく。


「若いころの経験は大切だと言いますが……。終わらない青春というのが無いように、彼もまた、いつかは自分の生きるべき道に戻っていかなくてはなりません。その時に……もし、かつての彼であったなら、自ら課した重荷に壊れてしまうかもしれません。今の彼なら、大丈夫だろうと思います」


 モーリスは静かに手を膝に置く。分厚い黒のガウンが、老体に汗を流させている。ルクスは顎を撫で、少し間をおいて答えた。


「そうでしょうか。僕には、もう一つ大きな変化が起こりそうな予感がしますが」


「その時は、私は見送ってやるつもりです。奇跡を目の当たりにしたら、彼も歯止めが利かぬほどには若いでしょうから」


 モーリスは静かに答える。鳥のさえずりをかき消すピンギウのいびきが、一瞬だけ止む。寝返りを打とうとした彼の腹はつかえ、結局もとの姿勢に落ち着いたらしかった。


「そうですか。その時は、僕も背中を押さねばなりませんね」


「ルクス先生はクロ―ヴィス君のことを、お願いいたします」


「彼は聞きませんよ。そう言う彼が、僕は気に入ったのですから」


 かかる雲は真っ黒な二本の尖塔の後ろを行き過ぎる。不均一な、黒い地平線が雲を呼び込む。町からは肉のにおいが流れ込んでくる。ルクスは水差しを手に取る。結露をするには体に良すぎる温度が、喉元の言葉を流し込んだ。


「今日もいい天気ですね。ヴォルカ・ノアールをこうして眺めるのも見事だ」


 モーリスは再び窓を覗く。一際突き出た地平線が、歪な黒い塊となって空を突き刺している。


「おぇっ」


 ピンギウがえずく。教師二人は水差し片手に彼を介抱し、その背中を摩った。


「さすがに酒に強いピンギウでも、酔い潰れる事はあるのですねぇ」


「ははは。いったいどんな度数の酒を仰いだのか」


 ルクスは三人分の酒の度数を思い出す。ルクスの酒は三十度を超えており、仮にピンギウが飲み干さなければ、自分もこうなっていたかもしれないと自嘲気味に笑った。


「どうかしましたか?」


「いえ、若気の至りとは笑えないな、と思いましてね」


 ルクスが鼻で笑うと、モーリスは声をあげて笑った。くっくという小さな音が、抜け殻のような部屋に満ちる。


「気を抜くと、大変なことになりますよ?」


「それでもずっと、若いままでいたいものです」


 ルクスは自分の頬をなぞる。滑らかな触り心地の中に、ざらざらとした毛の感触と、小さな毛穴のような些細な不快感が、彼の指の上を通り過ぎていく。


「安心してください。学者でいるうちは、大人になどなれませんよ」


 モーリスはからからとわらった。強い風が若葉の香りを運ぶ。蒸し暑いほどの陽気の下で、町は騒々しく金床を鳴らす。ピンギウが静かに目を開けると、広い天井の中に、二人の学者の姿があった。


「うん……?酔ってましたか?」


「昼間から酒を飲みすぎるからだよ、全く」


 ルクスはピンギウに水差しを渡す。彼は少し落ち着きを取り戻した肌の色を水面に認めると、「ありがとうございます」と短く言って湯冷ましを飲み干した。太陽が西へ少しだけ傾いている。学生二人は、間もなく教会へとたどり着くだろう。

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