ラ・フォイ8
何とかピンギウを寝かしつけた一行は、モーリスとルクスに彼の世話を任せ、予定通りもう一つの教会へ赴く。首尾よく素面のままの二人は、予定よりも上機嫌なままで、灰色の石を積み上げた教会へと向かった。
黒い2本の尖塔から、狭い路地へと抜け、都心と辺境を隔てる水路の橋を渡り、彼らはその教会、ラ・フォイ・デ・バシリカ教会へと向かった。
「今日は先生が不在だから、俺が解説してやる。まずバシリカって奴だが、これは、中央に身廊、側部に側廊がある、古くからある模範的な建築様式のことだ。この周辺のことをラ・フォイ・デ・バシリケー‐‐つまりは、バシリケー地区‐‐と言うのは、この教会の管轄区だからだな。まぁ……まずは教会を見ろよ」
バニラは教会を見る。黒い2つの尖塔からは二回りほど小さい灰色の建築物には、少数の狭い窓と幾つもの飾りアーチが見られた。重厚な外壁、には幾つもの傷跡があり、歴戦の洋平の手のような、ごつごつとした肌触りの扉が、来訪者を拒むように強固に口を噤んでいた。
「注目するべきは柱だ。まずは、開けるぞ」
クロ―ヴィスは全体重をかけて扉を開けようとする。扉は小さなうめき声に答えることなく、クロ―ヴィスは息を切らせて振り返った。
「……悪い、開けてくれ」
「フフッ」
バニラは思わず口元を緩める。
「笑うな」
彼はリラックスしたまま、教会の扉を押す。石造りのそれは確かに堅牢で、バニラもやはり小さなうめき声をあげてこの扉を開いた。
扉の向こうには、ラ・フォイの大聖堂にも増して暗い、広い礼拝堂が広がっていた。狭い窓からかすかに差し込む光だけを頼りに、二人は広い身廊を進む。バニラが上階の廊下を支える側廊の柱を撫でると、凹凸のある支柱には、何かの芸術が記されている事がわかる。彼は柱頭を見上げる。そこには、灯を囲んで寄り集まる人々の姿が刻まれていた。
「バシリカの特徴は『柱』の文化、カペルの古典教会で最も一般的なスタイルだ。この教会も、古い時代に建てられたものだ」
「カペル統一以前のものも?」
「あぁ、あるな」
バニラは、身廊の柱をぐるりと一周する。暗い礼拝堂に佇む支柱はほのかな暗色を纏いながら、側廊と身廊の曖昧な境界にメリハリを与えている。柱越しに見える深い闇の向こうには、蝋燭のかすかな火が揺れていた。
バニラは柱頭に描かれた物語をなぞりながら、身廊の中心部へと至る。祭壇と並び光の降り注ぐその場所には、くっきりと円形に切り取られた闇に埃が待っているのが見えた。彼はそのまま頭上を見上げる。幾つかの小さな窓から降り注ぐ光の筋の奥に、三角帽子のような屋根の様子が確認できる。
「バシリカは長方形で均整の取れた礼拝堂が特徴だ。ドームやアーチよりも全体的に角ばった建物になる事が多い」
「よく見ると、塔も八角形ですね」
バニラは塔を指さす。クロ―ヴィスは顔を上げ、感心したように声を漏らした。
「おー、ホントだ。よく気づいたな」
クロ―ヴィスはでこに乗せた手で埃を摘まむ様な仕草をする。彼は無邪気に「へへっ」と笑うと、バニラの肩に手をまわした。
「お前といる時は楽でいいぜ。それでいてちょっとした発見がある」
「まぁ、普段は騒々しいですからね」
誰のせいだ、とは、彼は勿論言わない。クロ―ヴィスははしゃいだ子供のように、バニラに先行した。
「ほら、来いよ。お待ちかねの祭壇だぜ」
「教会で走っちゃだめですよ」
バニラは彼の背中を見守るようにゆっくりと祭壇に向かって行く。光を受け取るためにとられたような八角形の塔から離れると、徐々に身廊に光が戻り、天井にある細密な金細工を目視できるようになる。神聖な祭壇に近づくにつれ、より光は眩くなり、彼らの影が地面に伸びるようになった。
そして、祭壇の前に立った時、バニラは思わず小さな溜息をつく。石の支柱幾つもに支えられて、中央に光の神ヨシュアの象徴をあしらった像が立っている。形を持たない聖ヨシュア神は彼らの共通の信仰における最高神であり、容易く各地の教会が多用することは許されていない。勿論、しばしばそれが散見されることがあるが、巨大な祭壇一つをヨシュアに捧げられるのは、いずれも教皇直属の聖堂か、司教座教会の大聖堂か、あるいは古来の信仰伝播で役割を担った幾つかの古典教会などである。
従って、ラ・フォイのバシリカ教会では、概念としての「神」を伝える為の意匠となっている。この教会では、ヨシュアには、明確な形を描かずに、太陽のような球体に幾つもの旭光が添えられ、その前に啓示を与えるために作られた人の形をした、顔のない像の形が与えられている。顔に削り取られたような跡のあるこの神の立像の頭上からは、大量の光が降り注ぎ、満ちた光が身廊に一部漏れる事で、奥に行くほど明るくなる、という独特な教会となっていた。
「ヨシュアに、バシリカ……このラ・フォイに古くから伝わる、古典バシリカ建築の最高傑作、『ヨシュアの光主祭壇』。これこそが、ラ・フォイ・デ・バシリカに来た目的だ」
「確かに見事ですね。光に従って歩むと、最後には祭壇にたどり着く……。信仰を広めるのに大いに役立ったんでしょうね」
バニラとクロ―ヴィスは静かに祭壇を仰ぎ見る。降り注ぐ光の中にある埃さえ幻想的に彩られ、それはさながら天使の羽根のごとく中空を舞っている。喇叭を持つ天使たちが柱頭から顔を覗かせ、祭壇に向けて音を吹き込んでいる。彼らは神の前に矮小化され、白と青の天上のマーブルに佇む彼らの主を讃えている。
「バシリカは……」
クロ―ヴィスは重たそうに唇を開いた。彼は真っすぐに、挑戦的な目を光主に向けている。
「バシリカは数多の柱で一つの祭壇を讃える長いアーケードを作る。それは宛ら……支配の縮図だな」
「クロ―ヴィスさん?」
バニラは初めて祭壇から視線を逸らす。無垢な少年のような横顔は、視線に気づいて物憂げな儚い微笑を零した。
「悪い。変なこと言った」
彼は祭壇に踵を返し、来た時と同じように身廊を真っすぐに戻る。背中はどこか焦ったように、暗闇の扉までを急いでいく。
「クロ―ヴィスさん」
呼び止められて、彼は振り返る。光に満ちた祭壇の前に、従順な学生が佇んでいた。
「仮にそうでも、『過去は変えられない』。未来に向かって行くよりない、違いますか?」
クロ―ヴィスは眉間に目いっぱいの皺を寄せる。バニラは怒鳴られるのかと覚悟を決めたが、彼はそのまま瞳を潤ませて口角を持ち上げた。
「そうだな」
彼はそのまま歩き出す。バニラも彼に続き、来た時と同じように扉を開けてやる。彼が扉に手を掛ける瞬間に、「俺も覚悟を決めないとな」と、男の高い声が耳元を掠めた。




