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ペアリス7

 旅行の当日になって、バニラは自分の荷物が身軽なことに随分驚いた。

 これから長い間旅を続けるにあたって、彼が必要と考えたものは教材と、メモ帳と、観測具、そして着替えが二着分、さらにつば広の帽子と、あとは腰に結わえたナイフと水袋、防寒用の手袋や革の上衣であった。

 改めてペアリス大学へ向かう道を長く踏みしめるように歩くと、彼は思っていた以上にこの道を気に入っていたことに気付いた。


 まず、ぼろの集合住宅の二階に、学生達をすし詰めにした部屋から早朝に起きると、城壁に阻まれた向こう側から徐々に上る茜色の朝日が目にまぶしい。徹夜の研究活動にしょぼくれた目を冴えさせる、酷く強い日光に目を細めると、家々の中にある川や、橋や、木々の狭間、背の低い建物の群れなどの中にその日光が現れることによって、石造りの道は一気に光に恵まれはじめる。

 支度を済ませた鞄を持って建物を出ると、古びた煉瓦に反射する茜色が自分の事も照らして赤く染め、徐々に白が広がる光の中に人型の影を残す。

 家を出るとまず、貧民街の低い住宅の中央の道は綺麗に光に照らされている。貴族連中などは日焼けを気にしてこの道を歩こうとはしないが(もっとも、貧民街に赴く理由も鉈ほとんどないのであるが)、バニラはいたずらにその中央を歩きながら、集合住宅のひしめき合う道を進んだ。


 町の中心部に向けて西へ進むと、刑吏が処刑用に建てた十字架や、車輪の打ち捨てられた痕、野良犬の足跡や家畜の為に庭先にばら撒かれた干し草など、実に花の都と言う言葉にそぐわないものが見られる。それらが日光に当てられて一瞬だけ輝きと影の境界線となる僅かな瞬間に、その一点がぼんやりと輝いて見えた。


 東教区の共同井戸と集団墓地、そして小さなフォルカヌス教会を通り過ぎる。太陽はいよいよ本格的に周囲を照らし始めて、教会の鐘は二回目の祈りの時間を告げた。寝静まっていた町の中で、微かに女房達の忙しい支度が始まる。これまで孤独の中で歩いていた中で初めて、陽光がバニラ以外を照らし始めた。

 集合墓地の苔生した墓石に恐怖を感じる時間は完全に失われて、フォルカヌスの車輪を模した教会の天窓が彼の背中を押す。


 また暫く直進する。教会とは異なる世俗の時間を示す鐘が現れる。市場広場はまだ閑散としていたが、小僧の使い走りはいつもの如く、ツンフトの仲間たちと挨拶を交わして悪戯の話などをする。悪態を吐いたり、笑い転げたりする高い声は、彼にとって遠い記憶のようになっていたが、そう言った付き合いの中に自分の幼い頃を重ねてしまい、バニラは咎めるでもなく通り過ぎていった。


 やがて石畳の道に煉瓦造りと大理石の入り混じった大通りに入る。キラキラと輝く川にかかる橋は今は閑散としており、学生の行き交う様もない。

 流水の独特の匂いを吸い込み、水しぶきを上げながらサラサラと海へ向かって行く川の上を通ると、広場や、行政諸機関が立ち並ぶカペルの心臓部に辿り着く。

 改めて凱旋門の前に佇み見上げると、フランツ・トゥアの像がバニラだけが独り占めしていた空に支配の剣を突き立てていた。彼は自然と口の端で笑い、その堂々とした佇まいにいつもはしない挨拶を送る。


 凱旋門と記念柱を通り過ぎると、やがて大学の校門が見えてくる。彼はここに至って初めて、名残惜しさに呆然と学堂を見上げた。


 凛とした佇まい、歴史が作り上げた古い染みや、イオニア式の支柱は老獪な長老のように彼を見おろしている。当時の建築技術の限界を思わせる、扁平なのっぺりとした建物には、しかし当時の建築の粋を詰め込んだ、小さな窓が細々と散りばめている。いくつもの影が通り過ぎたその窓の向こう側に、彼は自分の面影を思う。降り注ぐ陽光を受けた、その細く微かな光の反射に、バニラは深く息を吐いた。


「何突っ立てんだ!」


「おーい、こっちこっち」


 振り返れば、自分より重い荷物を抱えた恰幅の良い男と子供のような男が彼に手を振っている。口角を持ち上げたバニラの横を、二頭立ての馬車が通り過ぎていく。その中から顔を出し、従者に日傘を持たせたルクスが、羽根つき帽を持ち上げて微笑んで見せた。


「残念、君が一番後に来た」


 静かな朝、高い城壁の中、広がる見栄と香水の甘い匂い。そして、狭い大学の、広い敷地。旅立ちには窮屈なそれらの全てが、バニラの旅立ちを祝福していた。


「おはようございます」


 今日もいつもの通りに、彼は学堂に向けて深く頭を下げた。



 学生に遅れる事数分、モーリス教授は各宿泊地の観光案内書や、歴史資料などを携えて現れた。普段から非常にきっちりとした人物ではあったが、この大旅行でも疲れそうな講師用の服装を着ている。若者に人気があるような、体の線をはっきりと見せるような身軽な服装でくればそれはそれで笑ってしまうので、バニラは少しだけ安堵した。実際、彼も一応は正式な学生用の服を着て来たので、浮いていないという安心感もあった。


 モーリス教授は全員を見比べて、顎を引く。


「君達は自由な服装でいいね。ルクス先生、では行きましょうか」


 モーリスはルクスに向けて言う。ルクスは眉を顰め、肩を竦めてみせた。


「先生はおやめください、モーリス教授。私が教鞭をとるのは魔法科学、法学博士ではありません」


 モーリスは帽子を取り、「これは、失礼」と短く答える。奇妙な緊張感の中、一等高級な二頭立て馬車を一瞥した。ルクスは満足げに頷き、モーリスを馬車内に招き入れる。


「君達もどうぞ」


「待ってました!持つべきものは友だねぇ!」


 クロ―ヴィスはそう言って馬車に乗り込む。続けて二人が馬車に乗り込んだ。


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