ラ・フォイ4
教会へと戻った彼らは、拝観料を支払って尖塔へと登る。入口の扉が開かれると、その先はほの暗い螺旋階段が続いていた。
「何かお化けが出そうな不気味さがあるね」
ルクスはクロ―ヴィスを見ながらつぶやく。視線に気づいたクロ―ヴィスは、鼻を鳴らして笑い、足早に階段を登っていった。
「いいか、教会に亡霊は出ねぇ。出るのはまずい飯とありがたい説教だけだ」
「これこれ、そんなに急ぐと危ないよ」
モーリスは彼の後を追う。他の学生達も、彼らの後に続いた。
長い螺旋階段は黒い壁と相まって一層暗く、時折顔を見せる覗き穴から差す光が僅かに足元に届いている。壁には古い燭台が付いており、火を灯されているが、足元を照らすには些か心もとない。
どれほど歩いただろうか、バニラはふと、覗き穴から外を見下ろした。
そこからは、黒い街並みの天井を見渡す事が出来る。屋根は淡い橙色をしており、ラ・フォイは一面の黒よりも賑やかな素顔を見せた。バニラは足を進めながら、尖塔の最上部へから覗く景色に期待を膨らませた。
「この階段は膝に来るね……」
モーリスが膝に手を当てて息を切らしている。クロ―ヴィスもいったん立ち止まり、上段に乗せた左足に肘を置きながら、休憩を始めた。
「段差も高いし傾斜もある。こりゃあ確かにきついな」
彼らは丁度塔を七割ほど登ったあたりにいた。バニラは身近な覗き穴から都市を見下ろして、彼らに手招きをした。
「だったら、休憩がてら覗いてみてください。いい眺めですよ」
「おー、どれどれ」
クロ―ヴィスはバニラの横からのぞき込む。身長が伴わないため、バニラより一段高い所から覗き穴を見た。
「真っ赤な情熱の下は真っ黒、てな」
クロ―ヴィスは見下ろせる限りの屋根を見下ろしてにたりと笑う。各々がバニラの見た覗き穴から外を眺め始めた。
「既に市壁まで見えるね。これでもまだ先は長そうだ」
一同は覗き穴からの景色を楽しんだ後、階段を登り始める。塔頂からの景色に一層の期待が高まったためか、心なしか彼らの心は弾んでいた。
やがて、ここまで登った時間の半分の時間をかけて、塔頂へとたどり着く。狭く息苦しい螺旋階段の最後には、真っ黒な丹塗りの扉があった。
全員が最後の段を登りきる。最終段は非常に窮屈になり、途端に高まった湿度が、扉を握るモーリスの手を焦らせた。
「ピンギウ、呼吸音うるせぇんだけど」
「そう言いますが、貴方の汗のにおいも大概ですよ」
息も絶え絶えのピンギウが答える。クロ―ヴィスは肩を竦ませて、「悪かったよ」と短く言い放った。
「僕は香水をつけて来たから問題ないね」
ルクスは服をあおいで匂いを確認する。バニラにとっては、密集した結果香りの強くなった香水の匂いの方が、気分を滅入らせていた。
「君たち、開けるよ」
モーリスが細い声で言う。彼らは慌てて視線を扉の方へ向けた。
小さなうめき声をあげて、モーリスが鋲付きの重厚な扉を押し開ける。細い光が徐々に螺旋階段の上に伸び、やがて黒い階段は水色の空と混ざった。
解放されたアーチの中に、町全体が広がっていた。
黒い額縁のようなアーチ一つ一つには、神のおわす火山の下で麦作に勤しむ人々の時祷記が刻まれる。12のアーチが連なる中には、月々を彩る農民の暮らしが描かれていた。
「凄い!」
学生達は手摺だけを頼りに前のめりに外を眺める。青々とした空に雲の白が穏やかに浮かぶ。彼らは少しずつ青空の中を泳ぎ、真っ黒の教会のすぐ前で視線を気にしていた。
尖塔からは都市を区切る市壁が家々から僅かに突き出して聳えているのを望む事が出来る。
市場の石畳の道、土がむき出しのままの道、建物の隙間を埋めるこれらの景色は、細い血管のように所々に浮き出ている。快晴の空と赤い屋根の棟を分けるのは、地平線まで続く黒い山々の遠景であり、このはっきりとした輪郭に守られて、町は空からの光に無防備に晒されることが無いように思われた。
真っ黒な手摺りが取り付けられた装飾アーチの群れも、寸分たがわず黒色に拘り、どの建物よりも手近にある大聖堂の方が目立っていた。
「あれが霊峰ヴォルカ・ノアールか」
ピンギウが指を差す。そこには、一際高く暗い黒い境界線があった。一同はそれを眺める。天と地を隔てるには些か主張の大きいヴォルカ・ノアールは、今は煙も立てないままで静かに佇んでいる。丁度教会の尖塔と同じほどの目線にも思われ、歪な溶岩流の跡がいくつも山肌に固まっていた。
「教会が町を見おろすように、ヴォルカ・ノアールは有史以前から、この町に侵攻の光がもたらされる瞬間まで全てを受け入れ、見下ろしていたのだね」
「そして、人間たちはこっち側にも、『自分達を見おろす対象』を作った、と。不思議なものだ。支配されない事を望みながら、支配されるために尖塔に目を光らせるというのは」
ルクスは帽子を脱ぎ、遠い視線を地平線へと送る。歪な地平線の向こう側には、彼らが進んできた道が延々と続いているらしかった。
「人間は都合がいいんですよ。守ることは躊躇うが、守られることには躊躇いが無い」
ピンギウは自分の体重を気にして、肘を縁と手摺りの二つに体重を任せている。
「なに、今に始まったことじゃねぇよ。神様が都合よく人間を救ってくれると傲慢に信じてるのはな」
「自然信仰の時代から、僕たちはあまり変わらないという事だ。『守りたい』と思う意思がある者は、恵まれているのだろう」
ルクスは帽子を弄ぶ。アーチを吹き抜ける強風に、羽根がぱたぱたとはためいている。
「そうですね、僕たちは自分を守るために必死に祈るんですよ」
ピンギウは低い声で呟く。町を眺める二つの黒い象徴は、傲慢にも彼らを飲み込んだまま、実に数百年も目を離そうとしない。彼らもまた、この絶景に魅せられて、暫く呆然と山麓の威容を見上げるほかなかった。
彼方に浮かぶ雲海は、人々を見くだす黒に身を委ねたまま、変わりゆく空の色彩に身を任せていった。