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ラ・フォイ3

 学生達は、ラ・フォイ大聖堂の聖務が落ち着くまで昼食を取ることに決めた。


「酒を……酒を……」


「ははは……」


 リエーフでの出来事から、バニラはピンギウに特別の親近感を抱いていた。ピンギウの素朴な欲求が、彼にはいとおしく思われた。


「しかし、腰を据えて食う時間はなさそうだな」


 クロ―ヴィスは市場の機械時計を見上げる。時計の針は中心からやや右へ傾き、聖務を終えるのはここから10分とない。


「だったら軽食がいいだろう。ちょうどいいのを知っているよ」


 ルクスは辺鄙な飲食店を指さす。看板には肉と黒い石が象られ、その店が肉を名物としているのが見て取れた。


「いいね、旨そうだ」


「そうだろう?僕のおすすめを買ってくるから、そこで待っていたまえ」


 ルクスは店の前に並べられた木箱を指さす。そこには「待機用」と書かれ、この店舗が名物店であるという期待を学生達に膨らませた。

 一方で、モーリスは困ったように微笑みながら、ルクスに向けて「忖度」を求める。ルクスは頷き、そのまま店舗へと入っていった。


「ルクスさんのおすすめって信用できないんですよね……」


「辛いクッキーの件もあるしね」


「まぁ、君たちは大丈夫だろうと思うよ」


 モーリスは自嘲気味に笑う。バニラとピンギウは顔を見合わせて首を傾げた。

 ラ・フォイ大聖堂の尖塔は、どの建造物よりも遥かに目立つ。遠目に見ても城壁より突き出した巨大な黒の三角帽子は、安価なくすんだ灰色をした建材で建てられた家々を見下ろしている。

「ファッションはそれほどペアリスと変わらないんだな」


 クロ―ヴィスは通り過ぎる女性を見送って呟いた。背の高いヒールと、腰に帯びた白いエプロンから察するに、一般的な女性であることがわかる。家事を主導する年ではないのだろう、鼠色のロングスカートを揺らしながら、夕飯の買い出しに急ぐ。


 市場にある二つ目の機械時計は、数秒遅れで教会の鐘を追いかけるように動いている。衣装も同様で、当時の流行を、最先端を追いかけるようにして末端まで広がっていく。


「貴族と比べて、代わり映えしない衣装の方が動きやすいでしょう」


「だが、若い奴はそれでも高いヒールを履くし、男のレギンスは肌に密着している。若いってのはそれだけで、周りの目に振り回されるもんだぜ。……お前はそうでもないみたいだな」


「金があればいい服を着てもいいかなとは思いますけどね」


「逆に金があると、いい服を着なきゃいけないんですよ」


「まぁ、相応しい衣装と言うのは、時場所場合、あるというのは事実だね」


 バニラは道行く衣装を数える。似たような衣服を一、異なる衣服を二、と数えていけば、数字が進むにはどれほど遅いのかを考えさせられる。


 暫くして、ルクスが急いで食べ物を運んできた。上品な衣装の男が、そうでない一団に食事を運ぶという姿は、周囲の注目を集めた。ルクスは構わずにパンを各々に渡す。バニラは例のごとく、この何の変哲もないパンを、静かに観察した。


(丸く、綺麗な小麦色だ……。理想的な食事だ……)


「つまんねぇ見た目だな」


 クロ―ヴィスは拍子抜けしたというように、低い声で呟く。ルクスは口角を持ち上げながら、黙って彼が食べるのを待っていた。


「神が清貧を愛するように、見た目は簡素でも良いものと言うものは存在するだろう?それとも、君は良いものには理想的な肉が備わると思っているのかな?」


「っは、だったらその筋で論じてみるか?例外を除けば、案外的を射てるかもしれないぜ?」


 クロ―ヴィスは口元をゆがめて笑う。パンが彼の口元に運ばれるのを、ルクスは期待の眼差しを向けている。


(これは……様子を見るか)


 バニラはクロ―ヴィスの様子を観察する。彼は意気揚々と、魂の思想と行動の相関関係について語り、行動が肉へ与える影響を説明している。それは善悪と言うよりは、行動の結果のみに焦点を絞ったものだ。


 クロ―ヴィスはパンを齧った。途端に動きが停止する。先ほどまで不敵に笑っていた顔から、喜びの表情が消えた。代わりにやってきたのは、何か不可解なものを食べたような、訝しむような表情をする。

 それから微動だにしないクロ―ヴィスを見て、バニラはパンにただならぬ恐怖を覚えた。


「かってぇ……」


 クロ―ヴィスは静かにパンを口から離す。パンには、僅かに歯形がついただけである。ルクスは腹を抱えて笑いながら手を叩いた。


「良ーい反応だ!名物玄武岩パン!岩のように硬い、それだけの特徴で作られたパンだね」


「お前なぁ……!」


 クロ―ヴィスが歯をむき出しにして睨みつける。ルクスは彼の顔を手で押さえつけながら、いつになく快活な声で続けた。


「いやぁ、それでね……ハハハッ、ふぅ。それでね、今日はこいつを誰が一番早く食べられるか競争をしようと思ったのさ。どうだろう?」


「歯と顎を傷めないようにね……」


 モーリスは一人柔らかなパンを齧る。その中には真っ赤なイチゴのジャムが僅かに入っていた。


「いいだろう、受けて立つぜ。但し、お前が負けたら……」


「おっと、今回は一番初めに食べ切った人が得をするようにしよう。そうだね、一番初めに食べた人は、モーリス先生の食べている甘いジャムパンを買ってあげよう」


「ジャムパン?じゃあやります」


 バニラは俄然大きな声で言った。ピンギウは片目を瞑って「まぁ、いいですよ」と小さな溜息をつく。クロ―ヴィスは歯をむき出しにして不敵に笑った。


「いいだろう、口直しは俺が頂く」


 ルクスは一同の顔を眺めながら、指揮を執るように指をちらちらと動かして見せる。


「みんないい顔になったね、では、ようい……」


 バニラは前傾姿勢で、椅子代わりにしていた木箱から降り、これに肘を掛ける。顎に全体重がかかるように彼が普段食事をとるような姿勢を作った。


(実家で鍛えた顎を舐めるな……!)


 クロ―ヴィスはしっかりと腰を据え、壁に寄りかかる。口元にパンを控え、その時を待つ。


(悪いな、ここは知恵を使わせてもらう)


「はじめ!」


 両者が一斉にパンに齧りつく。バニラは顎の地から一切を用いてパンを引きちぎる。硬いパンは滑るように歯を受け流し、バニラはパンの端を僅かに齧り取っただけであった。予想外の硬さに、バニラは顔をしかめる。クロ―ヴィスの高笑いが、彼の頭上に響いた。


「はーっはっは!おつむが弱いぜ、真面目ちゃん!こういう時は頭を使うんだよ!」


 クロ―ヴィスはパンの表面を舌で嘗め回す。


(唾液かっ……!)


 その様子はあまりにも下品であったが、クロ―ヴィスは悠々とパンを和らげながら、少しずつパンを溶かして削っていく。


 バニラは一層の力を込めて、顎の力で食らいつく。クロ―ヴィスは顔を真っ赤にしたバニラを見下しながら、舌でパンを舐め回す。唇から下たることのないように、唾液を静かに飲み込んでいる。


「ふぅっん!」


 バニラは全体重をかけて無理矢理歯を食い込ませた。クロ―ヴィスの顔を歪む。彼は溶けたパンを削り取りながら、歯にがっしりとしがみついた好敵手のパンを見た。


 バニラはそのまま一気にパンを砕く。


「馬鹿な!そんなはずは……!」


「乾燥したトレンチャーで鍛えた……顎の力を……舐めるな!」


「ぐっ。だが、貴様はすでに虫の息だ、俺は舌しか使っていない。その力を振るい続けては、貴様の顎も犬歯も砕かれるに違いない!」


 クロ―ヴィスは舐める手を早めた。その横でルクスが腹を抱えて笑っている。傍から見れば、一枚のパンを噛み砕く姿はあまりにもシュールに見える。


 ラ・フォイの人々も寄り集まってくる。ちょうどよい見世物に、彼らは野次を飛ばした。顔を真っ赤にしたバニラに多大な声援が注がれる。バニラは再び顎に力を込めた。


「ガリィッ」


 パンが凄まじい音を立てる。バニラは苦悶に顔をゆがめる。街道を占拠する大声援が響く。ルクスの笑い声さえ、かき消すほどの熱狂だった。


 バニラがやっと二口めを手にした。クロ―ヴィスはパンの天辺をほぼ削り取ることに成功し、そろそろスパートをかけ始める。


 しかし、真なる魔物は彼らを簡単に凌駕してしまうものである。凡才の努力を踏みにじる、岩を叩き割ったような爆音が響く。二人は思わず音の方を向いた。


 表情一つ変えずにパンを咀嚼するピンギウの姿がそこにあった。


 呆気にとられている二人に視線を向けた彼は、鼻を鳴らして笑う。巨大な口で半分残ったパンを口の中に放り込んだ。


 無情に響く咀嚼音。それは市場の再開を告げる鐘の音よりも高く、街道に響いた。


「あいつ、たった二口で……!」


 一瞬静まり返った野次馬達が再び熱狂する。呆気にとられる二人を尻目に、ピンギウはがりがりとすさまじい音を立てながら、パンを咀嚼し、飲み込んだ。


「勝負あり!勝者、ソルテの大顎、ピンギウ・ソルテ!」


 野次馬達は歓声をあげてピンギウに向けて小銭を投げる。ピンギウは口元の屑を舌で舐めると、恭しく頭を下げた。


 市場再開の鐘が鳴る。それと同時に、野次馬は各々の居場所へと戻っていく。ピンギウはジャムパンを受け取りながら散らばった小銭を拾い、それを三等分してそれぞれに渡した。


「勝利の景品は僕のものですが、選手には相応の対価が支払われるべきでしょう」


 ピンギウはそう言って、分厚い手を二人に差し出す。二人はその手を取って、力強く握手した。


「完敗だよ」


「まぁ、こればかりは負けを認めるしかないな」


 三人は残りのパンを食べながら、聖務の過ぎた教会を目指す。黒い町並みですれ違う人全てが、彼らに温かい視線を送っていった。

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