ル・シャズー10
真に自己を蝕む暴力とは、自らの心底にこそあるという。現実主義な学生ピンギウは今、まさにこの暴力の中で、夜を過ごしていた。
彼は、同じように出自にはそれほど恵まれていないバニラと、一つ屋根の下で過ごしている。旅の初めごろに初対面だった彼に対して、ピンギウは不思議なほど自分に似た嫌悪感を感じていた。今は、自らとこの生真面目な学生との乖離に、強い憎しみを抱いている。
現実主義者である彼の、悲観的な知見の広さは、驚嘆に値する。死に対しては解放を読み取り、しかし、生に対しては不変を望む。それは、現実の転変とは基本的に悲劇的な結末へ向かうという経験則と、死によって齎される無には、何らの変化を伴わないという確証から来ていた。
それ故、彼は、自分が望む事は現実に起こりえないことだという強い確証と共に、あらゆる望まざることを避けるために、自ら進んで死に近い暮らしを望んでさえいた。それは昨日の修道士のように穏やかにもなり得るが、同時に、彼にとっては胸に重くのしかかるどす黒い感情が、周囲を満たしていくのも意味していた。
漆黒はくすぶった霧よりもなおも濃く、浮動する月は今にも揺り動こうとしている。低い天井には灯り代わりの赤い布が、床には横たわるピンギウとバニラが。真面目な学生達の言葉少なな意思疎通では、ピンギウの胸騒ぎを留める事は出来ないだろう。彼は寝返りをうつ。息苦しさから、細く、長い息を吐いた。
「ピンギウ」
「何ですか?」
「修道士さんからの伝言。『貴方に託された今に、幸あれ。貴方の道に橋を架ける者が、そこにいる未来あれ』だって」
内心を射抜かれた絶望に、ピンギウは言葉を失った。口元を押さえ、暴言を抑え込む。喉のすぐそこまで顔を覗かせる鋭利なナイフが、彼か、彼の友人を貫かんとする。
「……俺、昨日夢に見て、ちょっとわかったよ。お前の事」
「何ですか?いきなり……」
ピンギウは喉仏が喉を貫くのを抑える。小さな、囁くような声で、震える心を押さえつける重石を探していた。
構わずに、彼の友人は続けた。
「俺達の未来っていうのは、出自で大体決まってるんだ。多分、これは万国、それにどの時代も一緒だ。医者の子は医者にされようとするし、平凡な庶民はいつまでも平凡な庶民だ。王様になるやつは王太子だし、皇帝になるやつは皇太子だ。お前にとっては、出自っていうのは呪いだったんだな」
バニラは穏やかな口調で続ける。彼が身を起こすことで、シーツの下に敷かれた藁が音を立てる。簡素な茣蓙の鳴る音は、ピンギウの内心を益々焦らせた。
そしてこの音は、彼の中で、何か重要な石塁が崩れる音に代わった。
「諦観」
「……は?」
「逸なる者などなく、神などなく、或いは神の名の下に平等などない。一切は生まれ出で、死に至る。一切のしがらみを捨て、波に身を任せる。それが正しい生き方だと」
(そう教えたのは、誰だ?)
ピンギウは、自分の瞳が潤んでいる事を自覚している。滴が零れそうなことも、理解していた。その一方で、彼の精神は彼の肉体を見下ろして、全く別なものとして、自分を認識していた。
自分さえ自分を理解し得ないところを、彼は軽々と少しわかったと言った。バニラへ対する強烈な猜疑心は、陰鬱な漆黒の瘴気の為でも、霧深き天候の為でもなく、ましてバニラの為でもなかった。それを自覚してなお、ピンギウには、自分が何であるかを計りかねている。それは自らが望んだ生き方を知らないからであり、望まざる生き方さえ、ただ漠然とした現実に身を任せる自分を嫌悪してのことだ。そこに明確な信念も、目標も無い。
‐‐そこが、僕とバニラの違いだな‐‐
ピンギウの脳裏に穏やかな感情が戻ってくる。自分は何者でもなく、あの修道士のように望んだ生き方とは異なる生き方をするのだろうと言う、舞台装置としての自分を、宙に浮いた精神が見下ろしていた。
「お前は、いつも、そうやって、本気で悩んでいるんだな。凄いよ」
「凄いもんですか。勝手に自分を決めつけて、自分を縛り付けたんですよ」
「俺は、日課の天体観測が嫌になる時が時々あってさ。知らないうちに、楽しみを覚えてるんだろうなって思うよ。本気で何かに打ち込めないっていうのは、本気で自分と向き合った証だろ」
深夜の深い霧が、窓の向こうを揺蕩う。夜も明かりの灯るル・シャズーにさえ、明かり一つない中に、獣脂の蝋燭が灯される。
「チェス、やろう」
「e4兵士」
「……e5兵士」
両者は身を起こし、天井をぼうっと見つめる。まるでそこに盤上があるかのように想像しながら、一手一手を噛みしめるように進めていった。
混濁する思考が徐々に洗練されていく。ピンギウは静かな呼吸を取り戻し、遂に白の王を追い詰めた。
「チェックメイト」
「お見事」
「盤が無いと、雲を掴むように展開が曖昧になる。悩む時間も……必要ですね」
ピンギウは静かに横になる。バニラに見えないように寝返りをうつと、寝息を立てるふりをする。
「おやすみ」
蝋燭の明かりが吹き消される。バニラもピンギウに背中を見せて横になった。
夜は深まるよりはむしろ浅くなっていく。ピンギウは、丸くなった体を震わせながら、囁くように口ずさんだ。
憐れ、人は縛られているよ
大地は正位置を留めるピン、撥ねつけようとも押し戻される
主よ、大地に釘を打ち、何故私達を縫い留めた?
かくも憐れなマリネッタ、秘跡の跡も辿らずに
歌は魂を縫い込む針だ
されば肉体は糸だろう
ピンに留まった私達、自ら針で魂を留め、千切れんばかりの糸を押す
彼は悩む時間を噛みしめるように背中を丸める。翌日も友人と共に目を覚ます事を信じて。
【酒,遊び】 ここまで。