ル・シャズー9
学生達は、城の外装の観光を終えると、ルクスの姿を認めた城代の計らいで、跳ね橋を開放してもらえることとなった。
城代ニールモルト卿は、城壁の有無について激しい議論を繰り広げる学生の声に聞き覚えを感じて、突き出し狭間から外を覗き見た。視界の狭さに窮屈な思いをしながらも、濠の向こう側にいるルクスの姿を認め、即座に階段を駆け下りたのである。
「ルクス殿、いらしたのか!」
彼は息を切らせながら、学生達の前に現れた。バニラは、齢62の健脚ぶりに、先ずは驚かされる。
ニールモルトは、後退したでこが露出したオールバックの男性であり、貴族らしいキュロットと白いタイツ、赤い上衣を身に纏っている。靴は革製のもので、低いヒールが特徴的である。
衣装全体から感じられる高貴さは、年齢に伴って衰えていく頬のたるみにさえ、独特の気品が感じられた。
「おぉ、ニールモルト殿。ご機嫌はいかがですか」
「お陰様で、この年まで城代を任されております」
「相変わらずウァロー家は人使いが荒いですねぇ」
ニールモルトは苦笑いで答える。身なりの良い老紳士は、学生らの中にモーリスも認め、ルクスとの握手を済ませると、モーリスにも手を差し出した。モーリスは一瞬躊躇ったが、恭しい挨拶の後でこの握手に応じた。
「どうですか?中を拝見してみては?」
「是非、楽しみです」
モーリスはそう言うと、学生達に身なりを整えるように指示をした。バニラは自分の服装では埃を払うのが精いっぱいであったが、それをしたうえで、ニールモルトからは立派な外套を手渡された。思わぬ事態に困惑したバニラだったが、この老紳士はバニラを客人と認め、丁寧な口調で諭した。
「どうぞ、受け取って下さい。旅の記念にもいいですし、今後城などを拝観する事も多いでしょうから」
「しかし、そんな高価なもの……」
「ここは、どうか、ウァロー家城代の顔を立てて下さい。そうだ、妻の暇を潰す給金と言う事にして、どうですか?」
彼はそう言ってバニラに外套を押し付ける。罪悪感を感じながら受け取ったバニラに対して、ニールモルトは「妻はおしゃべりが大好きなんですよ」と困ったように笑う。続けて、彼は、バニラよりは身なりの整ったピンギウに対して、小さなコバルト製のブローチを贈られた。一同は、こうして、城の外装を一周し、跳ね橋の下へと戻って来た。
「しかし、コバルトのブローチとは中々珍しいですな」
「そうでしょう。当主様が、不在の内に私から要職の者に贈り物を出来るようにと、幾つか下賜品として作らせたものですが、鋳なおしにくくて仕方ないと技師が嘆いておりました。給金を積み増ししたので、原価の割には高くついたと当主様が不満を漏らしておりましたね……」
「ははは、そりゃ当主様が悪いな」
クロ―ヴィスは物珍しそうにコバルトのブローチを見る。中腰で歩く様はとても下品に思われ、不注意なピンギウが誤って顎を蹴りそうにさえなった。
城を一周した頃には、跳ね橋が下ろされたままで、兵士達が待機をしていた。ニールモルトに敬礼をした兵士達に、ニールモルトが客人五名の入城を伝える。兵士達は最敬礼を以てこれに応じ、跳ね橋を通る客人らにも深い礼を返した。
跳ね橋を通ると、即座に橋が閉ざされてしまう。薄暗くなった中で、城の扉は、扉には鋲が打ち付けてあり、分厚く塗られたニスにより、滑らかな触り心地が伝わってくる。ニールモルトによって開かれた扉の向こうには、思いのほか明るいエントランスが広がって居た。
入場してすぐに、バニラは天井を見上げる。案の定、シャンデリアがいくつか吊るされており、窓の狭い城内に満遍なく部屋を照らしている。
次に、バニラはエントランスの全景を確認する。煉瓦造りの建物であるため、内側は基本的に赤い色彩を放っているが、幾つかの額縁に、青を基礎とした絵画が飾られている。
「この絵、高かったでしょう……」
バニラは思わず零す。青を基調にした画材は一般に高額で、青い絵画を複数持っている事は金持ちの象徴でもある。
ニールモルトは苦笑しながら頷く。ウァロー家の威光に囚われた青を基調とした風景画は、やはり精密に陰影を描いており、星月夜を移すシャズーの貯水池が、輝きを放っている。
「実のところ、当主様のご意向で、油絵を幾つか書かせてきたのですが、大変に興味深いので、是非ご覧いただきたく存じます」
「身に余る幸福です……」
バニラはやや上ずった声で答える。ニールモルトの柔和な笑みに、自分が歓迎されているように思われ、彼はますますこの老人へ対する敬意を強めた。
赤絨毯の端を歩きながら、廊下の様子が彼らの視界を流れていく。壁には青い風景画や、歴代当主の肖像画が飾られ、木製の花瓶台は金のつまみを含めた高価な装飾で飾られている。
やがて、美しい女性の姿を描いた肖像画の飾られた額縁の隣にある部屋へと、一同は案内された。
「どうぞ」
扉が開かれる。薄暗い部屋の狭間からは、ル・シャズーの狭い遠景を覗く事が出来る。
部屋の中央にあるこの狭間の前に、御影石のパレットを手に持つ、老齢の女性が腰かけていた。
彼女は、頬がややたるみ、指先に皺が寄っているが、気品と優美さにおいてはあらゆる貴婦人と遜色ない。鼻筋はやや高く、纏めた髪を団子状にして髪上げをしている。青い瞳は垂れ下がった瞼の中で輝き、柔らかな頬が逆光の中で持ち上がった。
「あら、珍しい。お客様ですね」
「紹介します。妻です」
おぉー、という意味のない歓声が学生達の中から上がる。ルクスは貴婦人に跪き、恭しく挨拶をした。彼女は恥ずかしそうにたるんだ頬に手を当てて、やや赤面しながら微笑む。
「何を隠そう、彼女はウァロー家直々にパトロネージを受けた女流画家、アンヌ・ヴェアトーリエです」
「う゛へ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛!?すっごぉい!」
バニラさえ名を知る著名人の登場に、彼は思わず間抜けな声を上げた。
「そんな、大したことありませんよ。私は目の前にあるものを書いているだけですもの」
アンヌは筆を置き、手を振って謙遜を示す。ルクスが立ち上がり、「失礼」と断りを入れて、絵画を覗き込んだ。
「これは……あの花瓶ですか。……写実的なル・シャズーの画家でも、これほど見事な物は中々書かれません。鮮やかな色彩の中に添えられた陰影も又見事で、壁際で光の当たり辛い構図であるにも拘らず、鮮やかな花や陶磁の映す光沢の為に、陰鬱な雰囲気は微塵もない」
「あんまり褒められると照れてしまうわ。……でも、少し退屈だったの。歓迎しますね」
年相応のいじらしい笑みを浮かべながら、アンヌは五名の為に席を作るように指示する。ニールモルトはベッドに腰掛けてくつろぐ。
「アンヌ様は、ニールモルト殿と住む間に絵を学ばれたのですか?」
「そう思うでしょう?ところが、私が招かれてここで絵を描いているんですよ」
彼女は楽しそうに指を動かした。ニールモルトが頭をかいて苦笑している。クロ―ヴィスはその様子を見ながら、呆れたような視線をニールモルトに送った。
「そりゃあ凄いな。模範的なパトロンじゃないか」
「こうして、好きなように絵がかけるのは楽しいですよ。ここまで幾つかあった絵画はご覧になりまして?」
「えぇ、勿論。素晴らしい作品でした」
「それは、有難うございます」
アンヌは静かに筆を執りなおす。彼女は静かに深い呼吸をすると、再び絵画に手を加え始める。バニラには、その絵画に手を加えるほどの欠陥があるようには思えなかった。
茶器が運ばれ、客人達に紅茶が振る舞われた。
「……そこの小太りのお方。貴方は、将来、何になりたいと思っておいでですか?」
アンヌは自分の後姿を見せながら尋ねる。周囲の視線がピンギウに向かったが、ピンギウは構わずに鼻を鳴らして笑った。
「僕は親父の跡を継ぐのでしょう。それが、将来の展望です」
一瞬、部屋が静寂の中に落ちる。立った湯気が霞のように部屋の一部を白く染める。
後姿のアンヌは、筆を走らせながら、低い声で続けた。
「私は貴方の将来の展望を聞きたいのではありませんよ。将来の夢を聞きたいのです」
「夢ですか」
「えぇ。貴方は今、どこか遠い所に意識が行ってしまっているようです。それも、健全ではない方へ。貴方が望むものが無いならば、きっと貴方の周りにある今は素晴らしいものなのでしょう。『真に満たされざるは満たされたるものの中にあり』。貴方は、今を見るべき人でしょう」
アンヌは静かに身を動かし、絵画を公開する。ニールモルトが悲痛な声を上げた。
花の上に垂らされたのは、不格好な濃い焦げ茶色の絵の具。アンヌは涼しい表情で、汚れたキャンバスに手をかけ、ピンギウに見えるように動かした。
「……閉ざされた未来よりは、限りある今を。そうしていれば、貴方は未来に閉ざされないで済むのですから」
「……知ったような口を」
「現実を見られていないのは、貴方の方だと言っているのですよ。『過ぎたるは幻想であり、現実は幻想にはない』」
アンヌは静かに絵の具を拭い取る。残るのは鮮やかだった色彩の輪郭だけで、鮮やかな光沢は、そこからは損なわれてしまった。
彼女はキャンバスを夫に渡し、加工済みの白いキャンバスを設置しなおす。彼女の静かな呼吸音が、部屋中に響き渡った。
ニールモルトは「完成した絵画」を暫く険しい表情で眺めていたが、納得したように絵画を壁に立てかける。
「君の目には、そう言う風に映ったのだね」
「そう。そう言う風に映ったのですよ」
彼は静かに深い溜息を吐き、客人に視線を送る。それは穏やかなもので、怒りや落胆の類は無かった。
「なるほど。思ったより難しい問題のようだね」
ルクスは納得したように頷く。彼はその後、暫くアンヌと他愛のない言葉を交わした。
衝撃的な展開に取り残されたバニラは、呆然としたままで一時間の歓談を過ごした。