ペアリス6
バニラはやや機嫌が良くなって、この遺言書を大切に抱えながら、参事会館のエントランスまで早歩きで進む。階下を覗く事の出来る手すりから見下ろすと、見馴れた羽根つき帽を手に持った吟遊詩人風の男が、手持ち無沙汰にきょろきょろと周囲を見回していた。
「おや、君、そんなに嬉しそうに遺言書を持ってどうしたんだい?」
バニラが階段を降りる音に気が付いたルクスが片手を挙げて挨拶する。バニラは軽い会釈でそれを返すと、自分が持っていた遺言書を直ぐに鞄に仕舞った。ルクスは不思議そうに眉を持ち上げ、吟遊詩人風の羽根付き帽を取り出して胸元で弄んだ。
「しかし遺言と言うのは嫌なものだねぇ。自分の財産を曝け出さなきゃならないし、何やらこれから死にに行くような錯覚に陥る」
「ルクスはやっぱり色々な財産の処理で忙しかったのですか?」
「うん?まぁ、僕レベルになるとね。著作の相続権の事もあるし、カテドラルへの寄進も馬鹿にならない。それに親との財産の分化なんかも意識しないといけないからね、そりゃあもう書くことが沢山だよ」
彼は遺言書作成用に作ったらしいメモを胸ポケットから取り出す。俗語で書かれたそのメモには、紋章やサインの所在から始まり、彼固有の財産が眩暈がするほどの桁数で書かれていた。バニラは自分の鞄に手を当てて、思わず視線逸らして苦笑する。ルクスは羽根つき帽を静かに被りなおすと、バニラに向けてニッと笑いかけた。
「何、これは僕の滲み出る才能が悪いのであって、君が悪いわけではない。君は凡庸であるが善良だ。その美徳は分かるかい?」
「あ、また新人いじめしてるだろう!」
クロ―ヴィスが階上の手すりから身を乗り出して叫ぶ。彼は浮かれた子供のようにエントランスへ続く傾斜のやや大きい階段を駆け下りてくる。ルクスは珍しく不快そうに眉を顰めた。
「僕は新人いじめなどしていないし、彼は別に新人ではないだろう?君こそ、こんな階段を駆け下りて、恥を知るべきだ」
クロ―ヴィスが顔を真っ赤にしてルクスに詰め寄るので、バニラは慌てて彼らを引き離す。
「公共施設ですよ、二人とも!」
「これは名誉の問題だ。俺は決めたぞ、バニラ。このいけ好かない男をいま論難で言い負かしてやるとな!」
クロ―ヴィスは彼の手を払おうとして手を引いたが、それ以上の力を込めてバニラが袖を引き返したので、彼の膨らんだシャツは細い腕ごとバニラ側に引き戻される。ルクスは指を振り、勝ち誇ったような笑みで返した。
「君、論争なら僕の方が数段巧い事はこの学号の数が示しているのだが、それでも挑むというならば自由にしたまえ。まぁ、僕には片手間でも赤子の手をひねる時間は惜しいのだがね」
「あぁ、もう。また始まった!」
バニラは悪態を吐きたくなるのを抑え、二人の間に入って口を塞ぐ。長身のルクスには口に指が付き、クロ―ヴィスは顔面のほぼ半分が綺麗に隠された。
酒の席でもないのに!と彼が思ったのも束の間、ルクスとクロ―ヴィスが彼の手を掴んでゆっくりと離す。二人の顔を覗うと、双方共に口角を持ち上げて爛々とした若い瞳だけで睨みあっていた。
「論題は何にする?」
「そうだねぇ。君のステージでいいだろう」
彼らの遺言を作ったらしい参事会員が続々と階上に集まってくる。若者の喧嘩が始まる予感に思わず顔を顰めてその場から見下ろしていた。
最後にピンギウが現れて三人を認め、急いで駆け下りてくる。どしどしと重量感のあるビール腹が揺れながら、然し中々の俊足で器用に階段を一段飛ばしに降りる。
「お待たせしました。はい、落ち着いて。ほら立ち止まらず、行きましょうね」
「あぁ、もう押すなって!潰れるって!」
クロ―ヴィスはのっぽのルクスと巨体のピンギウに挟まれて、実際に苦しそうに唸った。バニラは慌てて彼かから手を離す。彼の体重に二人分が出口へと押し流される。彼はそのままルクスの手を引いて挟まれるクロ―ヴィスを助けつつ、背後に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。カールとメンデルは苦笑いで手を振り、その他の参事会員は顔を見合わせ、肩を竦めてみせた。
バニラはこの大旅行が、少なくとも自分にとっての負担になるだろうことを、何となく感じ取り、深く実感の籠った溜息を吐いたのだった。
参事会員らの視線は生暖かくも辛辣で、各々が彼らの旅路に向けて羨望と共に不安の眼差しを送ってもいる。遍歴学生と言うものが、彼らにとっても悩みの種であることは、良くも悪くも、その視線に良く現れていた。広いエントランスに鐘の音が届くには、彼らが完全に参事会館を出るまで待たなければならなかった。