ル・シャズー7
バニラは結局、朝食にありつく事が出来なかった。彼の分の朝食はピンギウの腹の中に納まり、思いきり霧を吸い込む事で空腹を満たす羽目になった。
「チェス盤を返すなら言ってくれればいいのに」
ピンギウは独り言ちる。バニラは苦笑いで誤魔化しながら、早朝に通った銅像の前で立ち止まった。
時間が経過し、いくらか薄まった霧の中でも、その銅像の存在感は凄まじいものだった。大きな牙を持つイヌ科の獣が、眉間に目いっぱいの皺を寄せて大通りを睨んでいる。その巨躯は成人男性よりなお大きく、毛並みはごわごわと硬く、獅子の如く鋭い瞳をぎらつかせていた。
「丁度いい。この辺りでよく被害の出る、シャズについて、少しばかり説明をしてみようか」
モーリスは思い出したようにそう言って、銅像の爪の辺りに手をかけながら、学生達に向いて話し始めた。
体長二メートルにもなる巨獣シャズは、ル・シャズー周辺で特に恐れられている獣の一つだ。この動物よりさらに一回りは大きいジェヴォーダンともなれば、背丈だけで子供二人分は下らないだろう。シャズはジェヴォーダンと異なり、小規模の集団を作って狩りをする、却って厄介な動物だ。羊飼いは特にこの辺りを通るときに、天に跪いて祈りを捧げるというくらいである。凶暴で強大なジェヴォーダンも身の毛がよだつ怪獣だが、シャズも凶暴さでは劣らない。
さて、では、ル・シャズーがその名を冠する事になった逸話について紹介しよう。
当時、この地では、原因不明の獣害が、彼方此方の村落で起こっていた。草原の多いこの辺りでは特に、遮るもののない、つまり城壁の守りが無い村や集落は、害獣たちの格好の餌場になっていた。ある日一人の羊飼いが、運の悪い事にシャズの群れに遭遇し、羊たちを置いて命からがらこの町へと逃げ延びた。彼は慈悲を求めようと本来羊を納品するべきであった修道院に嘆願をする。
修道院長はこれを気の毒に思い、この地の領主であったウァロー家の当主ルイ・ド・ウァローに相談を持ち込んだ。猛将ルイは彼の富を一欠けでも損なったシャズの横柄に憤慨し、即座に数名の仲間を率いてシャズ狩りへと赴いた。
現場へたどり着くと、既に羊飼いの羊は一匹のこらず食い殺され、ルイは再び憤慨する。彼は三日間馬を走らせてシャズの群れを幾つも狩り殺し、遂にはこの周辺にはシャズが現れなくなった。
これを喜んだルイは、かつてはダアムと呼ばれたこの地に、シャズの毛皮を旗として立て、シャズーと改名する事を宣言した。かくして、この地はル・シャズーと呼ばれるに至り、修道院も便宜化を図ってアル・ダアム・ド・シャズ―修道院と改名されるに至った。
話し終えたモーリスは、シャズの銅像に向き直る。歪に口元を歪ませたシャズーは、今にも涎を垂らして飛びつかんばかりの剣幕である。
「貴族様ってのは、何でこうも名誉好きなんだ?なぁ?」
「だが見栄っ張りの芸術は世界に遺っていくからね。ジェインのタペストリー然り、この、シャズー像然り」
動き出しそうなシャズー像を学生達は遠慮なく触る。まるで子供が狼と戯れているような光景で、道行く人々が盛んに視線を送る。構わずに戯れる様子に学生らしいと察した人々は、銅像から距離を取りながら、足早に通り過ぎていった。
「さて、では、そろそろ。ウァロー城の外遊に向かおうか」
「待ってました」
クロ―ヴィスが指を弾く。ルクスは帽子を被りなおし、ピンギウはぼうっと像を眺めたままで頷いた。
彼らが馬車に乗り込むまで、バニラは静かに西を睨むシャズの威容を眺める。
(凶暴で危険なシャズを、人間はここに閉じ込めた)
ルイ・ド・ウァローの武勇伝は、彼の内心に少なからず影響を与えた。人間は自然を超越した存在になりつつある、科学技術の進歩がそうした裏付けをしている、彼なりにそうした信仰を抱いてきた。その一方で、人間は人間を信仰しているのではないだろうか。この歪な二面性を、常に彼自身が抱えているのである。
バニラは一同が馬車に乗り込んだのと同時に、銅像に別れを告げる。ル・シャズーの伝統を引き継ぐ、ウァロー家の宮殿を見るために。
馬車は勢いよく車輪を回し、泥濘が乾ききらない道から泥を跳ね上げて進む。市壁が影のように輪郭だけを残す中で、ウァロー城の高窓だけが、なお形を保ったままで遠方に霞んでいた。