ル・シャズー6
目を覚ましたバニラは、大切に置かれたチェス盤を修道士に返却するために、一目散に修道院へ向かった。明朝のル・シャズーには霧が立ち込め、視界を不安定にする。足元まで見えない程深い霧は、この町の勤勉さも相まって、制限交易をする閉ざされた隣国、工業国家プロアニアを想起させた。
小さな獣の影が横切り、バニラは一瞬立ち止まる。通りには人っ子一人いないが、放し飼いされた鶏や、塵を漁る野良犬や烏が闊歩している。
霧の為か、水分を含んだ街路も、犬の影をより巨大に見せた。
(ル・シャズーは獣と関係のある都市だったな……)
バニラは犬が通り過ぎたのを確認して、再び道を急ぐ。象牙のチェスセットなど、貧乏人の彼には余りにも不釣り合いな道具だ。
やがて、ル・シャズーの中心にある広場へとたどり着く。現在は霧の為に視界が悪いが、中心には伝承に伝わる魔獣「シャズ」の銅像が建っている。霧の中で隠された像の影はより不気味さを増し、近寄ると突然、牙を剥く野獣が顔を覗かせた。
バニラは実際に狼に接触したかのように身震いし、そして再び修道院への道を急ぐ。
写実的な芸術の町、ル・シャズーは、シャズの伝承をもこの場所に呼び起こしそうなほど、余りにも現実味を追求した町だった。
暫く歩いていると、大鐘楼の鐘が鳴る。昨日披露された讃美歌の音階に合わせて、家々には明かりが灯り始めた。
バニラは修道院につくと、呼吸を整えて扉をノックする。昨日の修道士は、彼がチェスセットを持っている事を確認すると、扉を開け放ち、バニラに歓迎の抱擁をした。
「善良で誠実な貴方に祝福あれ。さぁ、中へどうぞ」
彼は丁度早朝の一時課を終えた所であり、現在は修道士や保護された孤児が聖典を片付けているところであった。
「すいません。この忙しい時間に」
「構いませんよ。それよりもあなたの誠実さに感謝を」
修道士はこめかみを抑えて俯き、静かに祈りの仕草を取る。狭い礼拝所では、聖務が非常に窮屈である。それでも、チアーズ修道会の模範として、この修道院は常に祈りを欠かす事は無かった。
修道士はバニラに着座を勧める。片づけを終えた子供達が、救貧院の掃除の為に礼拝所を出ていった。
「チェスは楽しかったですか?」
「えぇ、とても。遊びながらだと話も進むのですね」
「……人は楽しみながらでなければ得難い恩恵へ邁進できないものです。ですから、私達は、子供達にチェスボードや、貴族の方にはこの祭壇の美しさで以て、日々の説教を唱えているのです」
修道士は両手を広げ、掌を天に向けて語る。天上の世界を崇拝するための姿勢であったが、彼は常にバニラの方を見ていた。
バニラは昨晩の事について話すべきか悩んだ。手はしきりに組み替えて落ち着きない様子であったが、何故か告白をする事は憚られた。
ついに片づけを終えた修道士たちは、畑仕事へと向かって行く。バニラを真っ直ぐに見つめていた彼は、手を膝に添えて子羊の告白を待っていた。
「ピンギウ……友人が、貴方と先生を見ていて、自分の人生はつまらないなぁ、とそう呟いていました。まるで何かを諦めてきたかのように見えて、俺には、彼に有益なことは何も言えませんでした」
バニラは意を決して、昨晩の事を告白する。口を開くたびに、自分の顔が下がっていくのを感じた。
修道士は目を細め、静かに彼の言葉を聞く。修道院は狭く、バニラの言葉がよく響く。その一つ一つを、祭壇が拾い上げているかのように、バニラの唇は徐々に軽くなっていった。
全てを聞き終えた修道士は、こめかみを抑える祈りの仕草を取った後、静かにバニラの手を掴む。人間にしては冷たい体温が、バニラの皮膚越しに心へと染み込んでいく。
「その様な事があったのですね。小太りの彼は、私が望んでこの場所にいるのではない事を、きっと即座に理解されたのでしょう。モーリス……あなた方の恩師が刑事法の道を進んだように、私も医学の道を進みたかったのです。しかし、私には、この道を選ぶよりほかにありませんでした。ですが、今も、後悔はしていませんよ」
彼はバニラの手を掬い上げるようにして、視線の先まで持ち上げた。その冷たい手が、熱を持つバニラの心を冷ましていく。しかし、暫くして、修道士は自嘲気味に笑みを零した。
「いいえ。きっと、私は今も夢を見ているのでしょう。この穏やかな時間とは違う『過去』を、『今』を。一人の人間として、彼、ピンギウにこう伝えて下さい。『貴方に託された今に、幸あれ。貴方の道に橋を架ける者が、そこにいる未来あれ』と」
修道士はバニラの手を静かに離す。彼は柔和な笑みを浮かべて、持ち場へと戻っていった。取り残されたバイラは、手元に何かがある事に気付く。彼は手を開く。そこには、薬草を砕いて作った、信仰とは無縁の薬が握られていた。