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ル・シャズー5

 学者として生きるという道は、バニラにはほとんど閉ざされていると言っても良かった。ピンギウは自分の人生がつまらないと語ったが、バニラは、自分にはそれにも増して一層に悲壮な生涯が待っているだろうと、そう考えていた。

 その晩、唐突に彼は黒い狂犬に追いかけられていた。それが即座に夢だと理解した彼は、冷静に成り行きに任せて、追われるままに逃れる。その先には大きな崖があり、彼は吸い込まれるように崖へと落ちていった。


 蝋燭の灯を伴わない純粋な闇の中へと落ちていくと、地の底には真っ赤な溶岩の流れる地獄がある。溶岩の中に落ちたバニラは、炎を纏いながら地上に這い上がり、そしてジワリと体が熱くなっているのを感じた。

 夢には現実の事象がしばしば介入するが、それが溶岩となって身を焼いているのかも知れない。理解しつつも不思議と動悸がするのを隠しながら、彼は地獄の様相を呈する地底世界をゆっくりと歩いた。


 名門ペアリス大学に籍を置く、バニラの身分ではそれさえも名誉ある事であった。地獄の底には涎のような粘土の溶岩が岩肌を熱しながら流れ落ちているが、彼は自分なりにその過酷を潜り抜けて、地に足をつけて生きてきた。ピンギウも似た境遇だろうか。そう思って溶岩を二股に分ける岩の島‐‐それは細く心許ないもので、今にも溶岩に落とされそうなものだった‐‐に視線を送る。ピンギウは溶岩の間で腕を組み、真っ赤に煮えたぎり泡を吹く様を静かに見下ろしていた。


 バニラは冷静に彼の周囲を見渡した。よく見ると、何とか飛び乗れそうな細い岩場がいくつかある。その岩場は、奥へ向かうにつれて地上へ向かって少しずつ高くなっている事が分った。


 何が、彼を、自分と異なる立場に置いているのだろうか。自分もいずれは親の跡を継ぎ周囲の人々に嗤われながら一生を終えるのだろうに、何故、彼は、自分を含めて、羨ましいと思えたのだろうか?バニラは不安げに足元を見下ろす彼の姿を見ながら悩んだ。


「カペル王国は腐ってるんだ」


 空から聞き馴れた高い声が響く。クロ―ヴィスがバルコニーのように突き出した岩肌から身を乗り出して叫んでいる。彼はバニラがこちらに気付いたことに喜び、白い歯を見せて笑った。


「どいつもこいつも、溶岩にいつ落ちてもおかしくないな!」


 彼はそう言うと、バルコニーから身を引っ込め、螺旋状に続く岩肌の階段を昇っていった。手すりのない剥き出しの階段の上を、恐れることなく駆けて行く。


「そうは言っても、結果は分らないものさ。分かるのは、僕の周りは敵だらけと言う事かな?」


 遥か上からも声が響いた。上等な服を身に纏った人々がひしめき合う、手すり付きの螺旋階段の上からである。良く目立つ羽根つき帽は、バニラにはすぐに見分ける事が出来た。


 彼は歩むのを止めて、自分の足元を見る。地盤は固く崩れる事を知らない。一方で、上へと登っていく事は困難に思われた。


 ピンギウはどうだろうか。彼は溶岩の只中で途方に暮れている。彼が上に昇る為には、この燃え盛る溶岩を泳ぎ、対岸に渡って岩肌に爪を引っかけて昇るか、上へと続く溶岩の中の岩を、野良猫のように跳躍して乗り越えていかなければならないだろう。

 そこまで至って初めて、彼はピンギウの言う懸念に気付いた。バニラと同様に、ピンギウは堅実に歩を進めようとする人間だ。有体に言えば臆病な所のある人物であり、酒の力を借りて鬱憤を晴らそうとする。殆ど素面の状態で修道士を見ていた彼にとって、つまり、冷静な彼にとって、目の前の状況は酷く過酷には見えないだろうか?

 足場の安定しているバニラは、確かに上へと登るには絶望的だが、歩みを止めなければ、いつか階段の入り口くらいは見つかるかもしれない。一方で、ピンギウは必ず、溶岩を越えなければならない。煮えたぎる溶岩を飛び越えて、長い階段状の岩場を飛び越えるように要求することが、彼にとってどれほど残酷な事だろうか?


 バニラの運命はほとんど決まっていたが、彼の地位は浮沈する事を知らない。彼は少ない財源をこの黴臭い観測機器と共に大切に用いて、誰にも遮られない程些細な進歩を続けられる。そこにはいつかは階段への入り口を見つけられるという確かな事実を信じて歩みを止めないでいられるだろう。しかし、ピンギウは常に、落下の危険がある場所を飛び越えていかなければならないのだ。それは、慎重な彼にとっては実質的な断絶を意味する。


 バニラは彼にかける言葉を持たなかった。驚くべきことに、彼の絶望感を共有してしまったのだ。


「僕は、ここに腰を据える事を選んだ。対岸の貴方からは滑稽に見えますかね?」


 ピンギウは自嘲気味に笑い、不安定な足場の上に胡坐をかく。

 財産の差。才能の差。努力の差。あらゆる格差がピンギウをその場所に縛り付けたのだろう。高い知性と教養と、才能では乗り越えられない現玉を持つ者、勇猛さと類稀なる知性を持つ者、彼らはバニラやピンギウよりもずっと上の方に既にいる。剥き出しの、足場の悪い坂道を登る姿や、人々が足を引っ張り合う中を闊歩する姿は輝かしいものに見えた。

 同じことが、バニラにも言えるのだろう。彼はピンギウを見つめながら、早足で平らな地面を歩いていく。溶岩の川以外には、何もないように思われる道を。

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