ル・シャズー4
チェスは、主に貴族の子が軍事訓練にも用いた由緒あるゲームである。多数の類似したボードゲームと同様に、古くはインドに起源を持つもので、毎ターン対戦者は交互に一コマずつを動かす事が出来る。
なお、通常、相互に干渉不可能な異なる世界において、同様の名称のものが同様のルールで行われているという事はおよそ考えづらいが、ここでは、類似したルールを持つゲームを、「チェス」と呼び変える事で、便宜化を図っている事を注記しておく。
さて、救貧院から備え付けのチェス盤と駒を借りたバニラとピンギウは、宿に戻り、日課の天体観測を手早く済ませた。
既に蝋燭の灯を無用に灯す事が禁じられる時間ではあったが、彼らは明かりを漏らさないように自室で蝋燭に覆いをかけてチェスを始めた。
彼は、象牙製の滑らかなチェス駒に目を奪われる。木製のチェス駒であれば、比較的安価に用意できるが、象牙の本格的なものは一財産である。聖職者は寄進料や各種税金によって莫大な富を蓄えているが、あの質素で維持費のかからない修道院では、細部に奢侈品が用いられているのだろう。このチェス盤もその一つに違いなかった。
「この盤面を見ると、確かに何かの戦場を思わせるね」
バニラは最後の兵士駒を並べる。強い競技性を感じられる独特の緊張感が、周囲に静寂を齎した。
「貴族も遊ぶんだ。ルクスさんも呼んだ方がよかったんじゃないでしょうか」
ピンギウは先手の駒を動かす。初手の兵士はニマス進めるが、彼は敢えて一マスで様子を見るらしい。
「いや、今日の所は二人でいいかなって」
バニラは鏡のようにピンギウに倣ったが、彼は大胆にニマス進める事を喜んだ。
オレンジ色が紙の覆いで曖昧になる、仄暗い床の上で、白と黒の駒が慎重に動かされる。両者は不慣れな様子でつまむように駒を持ち上げ、マスの位置を確認しながらそこに駒を置いた。
幾つかの不注意な反則には気づかないまま、ゲームは騎士道物語のような正直な直進によって継続された。
蝋燭が蕩けて燭台の受け皿に滴り落ちるゲームの中盤に差し掛かって、バニラは喉に刺さった魚の骨を取り除こうと、世間話を始めた。
「俺は、正直、ずっと一人で研究して、最後には星を見るだけで終わるんだろうなって思ってたんだよな」
「へぇ……。じゃあ、夢物語はまさに夢だったんですか?」
「出来ればいいけど、俺の資金力じゃ限界があるからさ。どこまでいけるか、その為には時間を全て費やさなきゃ無理だからって」
バニラは黒い跳ね馬を用いて、彼を遮る白の兵士達を飛び越えた。
「……そうなんですか」
バニラを拒絶するように、ピンギウは僧侶を前進させる。無防備な兵士を捕らえた彼は、やけに誇らしげだった。
暫くの間、沈黙が場を支配する。象牙の駒がチェス盤上を搗く心地よい音が、断続的に響く。
貴重な跳ね馬を失ったバニラは、長考に耽る。拘束具を外されたように飛び回る白い女王の姿は、活発なカペラ南部の公女を思わせる。
長考の合間にタイミングを見出したバニラは、忘れかけていた本来の目的を思い出した。
「ピンギウ。さっきの事、聞いても大丈夫?」
「さっきの事?」
模索した挽回の一手を切る。逆転の一手は、攻め続けた敵の王を遠方の僧侶で狙う事だった。ピンギウは王を退けたが、それは王を追跡する白の跳ね馬を僧侶が捕らえる事を意味していた。
「ほら、先生の方、ずっと見てただろ」
「あぁ。別に何でもないですよ……」
ピンギウは静かに駒をつまむ。城塞が厳かに王を導くために動き出した。
「僕は、ただ、貴方達が少し羨ましいだけですよ」
「羨ましい……?」
バニラは手を止めた。思考を盤上から現実へと引き寄せられる。ぼうぼうと盛る灯は、ピンギウのふくよかな口元だけを照らしていた。
「僕は前に言ったじゃないですか。親父の言う通りにしますよって。僕の家は金持ちってわけじゃないから、何かを失う事を覚悟して、したいようにするって事は出来ないんです。だから多分家督を継ぐか……首尾よく知識を蓄えて成功すれば、息子を参事会員に出来るだろうか。そんなところです。……修道士の方を見て、つい、そう言う自分の未来を考えてしまったというだけです」
「修道士になりたいの?」
「いや、そうではないんですが。ただ、旅の仲間の姿を見て、自分の生き方は酷くつまらないなと思ってしまいました」
ピンギウは自嘲気味に笑う。彼は仄暗く重い雰囲気を撃ち破るが如く、会心の一手を打つ。盤上には殆ど駒が残っていなかった。
「……お見事」
バニラの短い称賛を、首を横に振って拒絶する。消えかけの炎が、蝋を蕩けさせる。蕩けた蝋はかつての肉体を伝い、底が固まり始めた受け皿に滴り落ちる。音のない沈黙が、力なく垂れ下がった唇を照らし出した。
「未来は決められているとして、そこに心の入る余地のない事とは違うでしょう」
「そう思えるなら、大丈夫だな」
ピンギウは微かに口角を持ち上げる。間もなくチェス盤が退けられ、深まった闇を受け容れるように、二人は静かに、蝋燭の灯を消した。