ル・シャズー1
ル・シャズーの市門を潜った一行は、格子扉の向こう側に待ち構える天使と女神を象った噴水に、まず目を奪われた。立体感のある大理石のこの像は、鼻筋の通った美しいカペラが横になり、天使達から果物や捧げものの類を、杯を片手に受け取る姿が彫られている。彼女の杯からは無限のように水が引き上げられ、滴り落ちるように噴水の池へと落ちていく。これが、市に入場した途端に目に入る光景である。
「流石は王よりなおも王、だな」
クロ―ヴィスは官能的な大理石の滑らかな太腿に触れながら言った。楽園の中に添えられた蛇足に、微妙な表情を浮かべながら、バニラは冷静に周囲を観察した。
カペラの噴水を中心に、市門の前には庶民向けの小さな広場が設けられていた。この広場に売られているものは旅の必需品が殆どで、解れを繕うための裁縫道具、皮の水袋などが並べられている。リエーフの湿気とは縁遠い心地良いからりとした陽気が、学生たちを大層喜ばせた。
建物はやや背が低く、小ぢんまりとしていて、小さな窓からは糸車を回す婦女の姿が覗く。一つ一つの部屋に上等ではないがみすぼらしくもない身なりの人が住み、このせまい集合住宅は学舎を想起させた。
ルクスが食べ歩きの為に露店から購入しているものは、パンに茹で野菜を挟み込んだ簡素なもので、バニラでも時にはできる贅沢の類に分類される食事だった。彼は勿論人数分購入するが、穀物の割合が殊の外大きく、持ちづらそうに指の間に挟んでいる。ピンギウがこれに気付き受け取ると、早速それを頬張り始めた。
「ル・シャズーは奥へ進むほど階級が高くなる町だ。昔からの伝統でね」
「中央の方が攻められにくいからですかね?」
「そう言う意味では教会にも逃げ込みやすいな」
「獣の伝承と関係しているのでは?」
「軍事的な影響と言うのはあるだろう。行政区域へのアクセスの良さもあるだろう。何れにせよ、この町の芸術は中央に集中しているという事さ」
ルクスは持ち寄ったパンを振る舞う。バニラはこれを受け取ると、先ずはパンの中身を確認した。茹で野菜の水分を吸収した田舎パンは、程よい硬度になっていた。
ル・シャズーには、伝統料理の類はない。より正確に言えば、伝統の料理が振る舞われるのは年に一度の害獣駆除の記念日に限られ、普段の食事はカペルの都市でよく見られるようなものが多い。その中で、恐らく例外的に伝統料理と言えるのは、この、茹で野菜を田舎パンにはさんだだけの簡素な料理だけであろう。これはコレフと呼ばれており、毎日をそそっかしく過ごすル・シャズーの庶民の為に開発されたもので、美味ではないが手軽さでは群を抜いている。それは腰を据えて料理を食べる文化が浸透しているペアリス近郊部の上流階級には無縁なもので、同様に休憩時間を文字通りに過ごすペアリスの庶民にもやはり無縁のものであった。
複数の露店には昼時の行列ができ始めていた。彼らはコレフを受け取ると、これを片手に自分の職場へと戻っていく。バニラはこの勤勉さに驚き、物見遊山を楽しみながら道の端を歩く自分達と比べた。
「プロアニア人のようだ……」
彼は思わず言葉を零す。風のように去っていく彼らは、通りすがる人に断りを入れながら道をずんずんと進んでいった。
「プロアニア人なら互いの顔を合わせないぜ。彼らは頭の中が生真面目で満たされているのさ。見て見ろ、あそこに」
クロ―ヴィスの指の先には、老婆が銭を入れる為の土器の花瓶を手に持って、軒先に座っている。こうした光景にはバニラにも覚えがあった。これは、諸所の事情により公娼から外された者が個人で営む私娼の従者で、中では様々ないかがわしい情事が行われていると言われる。こうした仕事とは無縁のバニラは、本能的に彼女から1ヤード分は距離を取って通り過ぎたが、思わず相手が視線を合わせるほどの視線を送ってしまった。
「娼婦にもいろいろな事情があるが、ああなったら長生きは出来ないだろうね」
ルクスは酷く冷たい口調で言い放った。こうした事情に疎いバニラでも、男女が情事を行う事に伴う危険性を、知らないではない。それはこの生真面目な青年を酷く狼狽させたし、都市への異常な警戒心を植え付けもした。
彼は町の至る所から、良く無いにおいを探し始める。街路の隅にはごみが散乱し、ぶつかった市民は互いに一発殴り合ってから通り過ぎていく。窓際に植木鉢の緑は無く、代わりに土色の洗濯物が隙間なく並んでいた。
しかし、町の中央へと進んでいくと、辺りは徐々に明るい景観に変化していった。しなやかな絹のきらめきを風に靡かせる貴婦人や、整えられた髭をなぞりながら、職人街を闊歩する世継ぎの男、猛烈な馬車の速度を先導する先供のよく通る掛け声。陰気な印象のル・シャズーの道路は、目に見えて幅が広くなっていった。
そして、ここに至って、彼らは、街中に華やぎを添える画家工房の群れが開け広げられた硝子戸から覗く事が出来た。
画家工房では娘の結婚相手を探すために、肖像画を描かせる貴族や、古い絵画を限りなく精巧に模倣するように請求する面倒な顧客まで、様々な顧客との商談が行われていた。
「そろそ見えて来たね。彼らの実力が」
バニラは硝子越しの額縁に目を凝らした。両の手を静かに組み、髪上げをした貴婦人は、頬がほのかに赤く鼻筋の高い美人であり、鏡に絵の具を塗って印刷をしたかのように、極めて写実的に描かれていた。
「これは確かに凄い……」
思わず立ち止まったバニラの頭にのしかかりながら、クロ―ヴィスが画家工房の中を覗き込んだ。
「どっちの意味だ?なぁ?」
「な、何の話ですか!?」
バニラはクロ―ヴィスを払い除ける。バニラの初々しい反応に、クロ―ヴィスは愉快そうに笑いながら、彼を追い抜いて振り返った。
「こりゃあいいや。修道院に着くまでにお前が何回足を止めるのか、数えておいてやる」
「面白そうだ、1枚かませてもらおう」
ルクスは彼とハイタッチをする。この無意味な同盟には、下品な下心しか感じられないが、彼らの熱い友情を目の前に見せつけられたようにも思われた。バニラは、下を向いたまま足早に前進した。二人は彼を茶化しながら時には大声で美人の肖像を示して誘おうとする。バニラはその日、画家工房の立ち並ぶ職人街の泥の色を、これまでにないほどの精度で解析する事となった。