リエーフ11
翌日、彼らは大修道院附属の写本博物館へと移動した。旅程の関係上、どうしてももう一泊する必要があった為であるが、修道院に赴いたのは大旅行の本質に関する理由からである。
通常、巡礼旅行には莫大な財産が必要となる。そのため、長期間宿に宿泊する事は、特に中産階級の者達には非常に重い負担となる。しかし、巡礼旅行は教会としても推奨したいほど多くの寄付を各施設に齎してくれる。そのため、修道院を含む聖職者階級全体の伝統として、一定の条件の下、無償で教会に宿泊する事が出来るようになっている。一定の条件と言うのは、基本的には寄進料を支払い、聖遺物に参拝している事と、異教徒でない事、一定期間に心身ともに健康であることなどがあり、通常、カペル王国に在住の国民であれば比較的容易に条件を満たしうる。宿泊設備が別にあれば問題は無いが、こうした救済措置によって王国内の聖職者階級は少なくない利益を獲得してきた。
名目上、通常以上の参拝料を支払ったことになっているルクス一行が、大修道院に歓迎されないはずもない。とはいえ、日中の余暇を大修道院の回覧で過ごすと言うのは‐‐あくまで特別に図書館へと招かれでもしない限り‐‐あまりに退屈である。そこで、彼らは、修道院が一般公開を認可している、図書博物館の回覧をするに至ったのである。
大修道院の連綿と続く飛び梁を観覧するように庭園を半周すると、やがて真新しい小礼拝堂のような建物が現れる。直ぐ付近には屋根付きの井戸があり、修道者達がここで手を清めたり、飲み水に使っている。
小礼拝堂には二対の石像が入り口に控えて佇んでおり、モザイクのようなミニチュアの薔薇窓が取り付けられている。
「流石にここに飛び梁は無いんですね」
ピンギウは建物を一周観察してからポツリと呟いた、
「まぁ、背も低いから、必要なかったんだと思う」
飾り気のない柱が屋根を支える玄関口の上にも、小さな羅針盤
が取り付けられている。総じて、この建物は小さな修道院の様相を呈しており、特別に手を抜いて建てられたわけではなかった。
「中には展示物として、多くの装飾写本が解放されているわけだね」
モーリスは早速入館の為に寄付をして、建物に入場する。教会にしてはやや薄い扉を開く。
扉を開くと、彼らの眼前にミニアチュールをあしらったフレスコが現れた。身廊を真っ直ぐ貫く広い空間には、棺などが埋め込まれるべきスペースに細長い細密画がちりばめられ、側廊にはケース越しに広げられた写本が展示されている。数世紀にわたって保管された数多の芸術的な細密画は、修道院の清浄さにそぐわない色鮮やかな世界を演出していた。
「ジャックの賛美歌集成も重要な書籍だが、正面のあの絵はランドマル伯の時祷書からの作品だね」
モーリスは一歩前に踏み出して、正面の絵画を指さす。時祷書には、五月の貴人たちによる披露宴の様子が描かれている。祝福のファンファーレを鳴らす馬に跨った従者には、ランドマル伯の青の軍旗を喇叭にかけている。中央に従者や近親者に囲まれて、はにかみながら首を擡げる貴婦人と、青い衣服を纏った貴人が描かれている。背景は木々が生い茂り、草原の素朴な緑色の上には、行列のごく近くで犬がじゃれ合っている。
馬に跨る一行は、様々な帽子を被っている。黒いつば広の帽子や、髪上げをした貴婦人が被る白いヴェールなど、絵画の当時の流行が良く現れている。
「ペアリスはモードの町と言われているが、こういうファッションもペアリス発なんでしょうか」
ピンギウはモーリスに訊ねる。モーリスは少し唸り、首を傾げた。
「いや、これは半島都市国家から来たものだろう。丈の長い上衣にその名残がある」
バニラは自分の衣服の丈を確認した。彼はペアリス人であるが、さほど衣装に関心を示したことが無かった。この一着も、かなり長い間着続けてきたが、そこに拘りがあったわけではない。だが、この衣装の丈が絵画の世界と比べると確かに丈の短い上衣である事が分かった。図らずも、彼は流行の中にあったのか、と妙な感動を覚えた。
「そもそもペアリスが繁栄したのは、完全にカペル王国が統一されてからだろう。ここ千年くらいのうち、精々が五百年ってとこだ」
「五百年も安定していれば老舗だと思いますが……」
ピンギウは硝子越しに彩色ミニアチュールの回覧をしながら答える。彼の目線の先には、半島由来の作法で寝転びながら会食する人々の姿を描いたものがあった。
「これなんかは、少し古い時代の絵ですね」
「……少なくとも、宮廷のマナーが定着する前のものだろうな」
ピンギウの立ち止まった理由は喉が証明していたが、古い絵には鮮やかな色、特に赤い色がふんだんに使われている。
「よく見ると紙質も少し違う……」
皮革特有の淡い光沢が所々に残り、未だ羊皮紙の切削技術が未熟だった時代の物である事がわかる。所々に光沢が残り、楕円形の粗い穴を誤魔化すために、紙の端には緩やかな凹凸がある。
「製紙法の技術が伝来する以前、かつ羊皮紙の専門職が現れる以前に作られたものかもしれないし、専門家以外が趣味で作ったものかもしれない。いずれにしても不格好だね」
古紙のにおいが充満するこの資料館には、常に疎らに人の往来があるだけであった。彼らは各々が自由に、紙の上に塗られた青色の少ない細密画を硝子越しに回覧して回った。
図書博物館で閉館までを過ごした一行は、その後再び大修道院へと参拝に赴き、ここでリエーフの最後の一日をゆっくりと過ごした。