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ペアリス5

 二日後、頭痛が落ち着いた一行が向かったのは、市参事会の行われる参事会館であった。大学の講義室よりも幾らか堅苦しい挨拶と、独特の緊張感の漂う参事会館の風景は、バニラにとっては慣れたものであったが、ルクスを除く他の学生にとっては少々鼻の上がむず痒くなったようだ。


 頭の上からつま先まで丁寧に危険物の調査をされた後、彼らはそれぞれが案内されるとおりに部屋へと向かって行った。


 旅の最中、万が一不慮の事故がある事は決して他人事とは言えず、死後の世界への保険も兼ねて、彼らは遺言を残しておく必要があった。

 これは旅先でのトラブルへ対する備えでもあったが、同時に彼らの身元を国家が保証するためにも必要な処理であった。死に赴く準備と言うものは、気の進まない事ではあったが、一応の支度をすることは彼らの旅の支度を後腐れなく終えるためにも必要な事であって、つまりは彼らの愉しみの時間を出来る限り増やす事に他ならない。彼らが気の赴くままに楽しむためには、まずもって遺言をペアリスに遺しておかなければならないのである。


 さて、各人の特性に合わせて遺言の内容は様々であろうが、バニラは彼ら……即ち他の仲間たちと比べてこれに対する思い入れが強くはなかった。それは、彼が苦学生であり、仮に遺すものがあったとしても、精々が貸本屋への負債だとか、彼の趣味で搔き集めた道具達くらいであって、特別に家族に何かを遺すメリットはなかったためである。


 そして、こうした思想は、当の担当参事会員にも伝わっていたのである。殺風景な個室に、ぽつんと置かれた長机と丸椅子とが、向かい合って備えられている。この部屋の角四方にはそれぞれ遺言を保管するための背の高いキャビネットが備えられていて、そこには厳重に錠が付けられていた。

 頭から直接足が生えた頭足類グリロス型の錠前は、大きな口を鍵穴として広げ、餌を待つように不気味に丸い目を見開いている。


「さて、では遺言を書く前に、ここにある二枚の紙が確かに合わさる事をご確認いただきたい」


 そう言うと、参事会員は不均一な山形に切られた二枚の紙を取り出した。バニラはその山を合わせ、確かに一枚の紙であることを確認する。


「大丈夫です」


 そう言って机の上を滑らせた紙を、職員が互いに一枚ずつ受け取った。


「では、これより遺言の転記を行いますので、バニラ・エクソス様は神に誓ってこの遺言が本心であることを保証したうえで、ここに遺言を述べて下さい」


「はい」


 参事会員の目は何処か虚ろで、何を見ているでもなく眉を垂らしていた。バニラはその間にも自分が遺せるものについて幾つか持っていないかと思案していたが、中々良い案が思いつくことは無かった。そこで、彼は、少し古臭い文言から初めて、思案する時間を稼ぐ事ととした。


「主の御名のもとに……。わたくし、バニラ・エクソスは……この言葉を遺す時、即ち第三十二回年の春の第一月、心身ともに健康である。また、私の言葉は何者の言葉でもなく、わたくしの口と理性に基づいて綴られたものである事を……花冠に接吻する事で示すだろう。また、ここに記されている財産は全てわたくしの不断の努力を以て得た財産であって、何者かより齎されたものではない事を誓う」


 参事会員は訝し気に眉を顰め、少し馬鹿にしたように口角を持ち上げた。


「あまり緊張なさらず。健康な体が遺言の条件である時代はとうの昔に終わりましたので」


「えぇ、はぁ。はい」


 バニラはやっと考えを纏めるに至った。結局のところ、彼が持っている財産と言えば、精々が彼の趣味の領域のものなのであって、却って彼らにも分かりやすいだろうと心に言い聞かせた。


「まず、わたくしの財産であるカペル硬貨各種及び占有不動産については、全ての負債を返済した後の残留分を、父母、兄弟、乃至未来の息子及び伴侶に分配する。それぞれの遺留分は全て法定通りのものとする。

 次に、わたくしの魂の救済の為……わたくしの著作すべて、またわたくしの持つ動産のうち、天体観測用の諸器具について、慈愛と肉体の美と共に、女神カペラに返す。なお、わたくしの所属教区はペアリス東地区、所属教会は聖フォルカヌス中央教会である。

 最後にその他私財、即ち有形財産のうち、消費させる残存資産については、全てその処分を相続人各位に委ねる事とする。以上、市参事会員……ええっと」


「カール・シュナイデン、メンデル・サフォイヌス」


「市参事会員カール・シュナイデン、メンデル・サフォイヌス以上二名の立会いの下、上記の通り遺言とす。アンリ・ディ・カペル薫陶王の治世、第三十二回年春の第一月」


 ここまで言い切り、バニラは深い溜息を吐いた。自分の蓄財の少なさに将来の不安を再認識したことで、先細りの天文学に関心を示す彼の不安を痛感したのである。深い溜息に対する参事会員二名の反応はとても安堵感に満ちたものであって、南東のキャビネットにつけられた錠を外しながら、カールは低く優しい声をかけた。


「お疲れさん。いやぁ、若いのにしっかりしてるねぇ」


 背もたれにもたれ掛かったメンデルはカールに顔を向け、手をぶらつかせた。


「息子にも見習ってほしいぜ。魔法の鍛錬もろくに出来ねぇくせして、一丁前に食いやがる」


「いえ、俺はあんまり学問も出来ませんで、家の手伝いもまだまだでして。中々、周りに追いつけていないんです」


 バニラは膝の上に乗せた両の手を強く握る。屈辱と言うよりは照れ隠しで、特別な才能のない彼に対する賛辞の言葉はこそばゆく、頬を自然と持ち上げさせた。

 カールは順番に仕舞われた帳簿を開いて遺言を中に入れ、ごく丁寧に引き出しを閉ざした。


「いやぁ、才能じゃあないのさ。俺達の国の神様は美に煩くて偏愛的だが、それだけに真面目な奴ってのは貴重なもんさ。案外そう言う奴が偉くなったりするもんだ」


「そして俺達の首を締め上げて、あれやれこれやれ言うんだが、まぁ、それのかしましい事。プロアニア人も舌を巻くに違いないぜ。ほい、これはお前の家に、大事にとっておきな」


「褒めてるのか、けなしてるのか分からんな、お前」


 メンデルはカールが錠前を閉める音を聞くとすぐさまバニラに遺言書の控えを渡した。彼はにやにやと笑いながら、受け取ったバニラの背をトン、と叩く。


「こうして忠告しておけば、未来の上司様との付き合いも楽になるってもんよ」


 二人はバニラを置いて大いに笑い、そして一方的に「頑張れよ」とだけ言ってバニラを返した。


 雨水にも強い羊皮紙に書かれた端正な遺言は、バニラ自身を一端な人間のように錯覚させてくれる。彼はその遺言を大切に抱きかかえながら、エントランスに戻った。


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