リエーフ10
ルクスとモーリスの突然の訪問は、バニラの天体観測の補佐をした後で直ぐに床に就いた三人を大層驚かせた。ルクスが肩を竦めて「どうやら彼に僕は不要なようだ」と言って笑うと、不貞寝をしていたクロ―ヴィスが布団の中で腹を抱えて笑った。小一時間の睡眠で十分に戻ったとは言えない体力でも、夕闇の中で負担に胡坐をかき、安い酒で飲みなおすのは充分に滋養に良かった。
「あぁ、オスカルの野郎、むかつくが愚かだぜ。お高くとまってルビーと言って、醜態を晒すなんてなぁ……」
クロ―ヴィスはバニラに肩を回して上機嫌に笑う。白い無邪気な八重歯が顔を覗かせている。
「……すいません。俺のせいみたいで」
「なに、私は学徒たちの学びを遮るものは例え神であっても許すべきではないと考えているよ」
モーリスは敢えてバニラに気にかけることは無いとは言わなかったが、腹に溜まる安酒は普段より彼を大胆にさせ、彼の思うとおりの理想を語った。ルクスは腕を組んで頷く。
「まして、三世のお坊ちゃまとくればねぇ……」
クロ―ヴィスは「なぁー」と語尾を重ねた。バニラは帰り道の彼を思い出して吹き出しそうになったが、上機嫌な彼はそれを見逃してくれた。
「……美味い」
「こいつ何でも美味いって言うなぁ」
「恋と同じで酔えれば何でもいいのさ」
「その情熱を是非学びに生かして頂きたいものだね」
彼らの言葉を聞いているのかいないのか、ピンギウはとろんとした目で再び酒を傾ける。小さなしゃっくりをした彼は、その目のままでバニラを見た。
「な、なに?」
「……いや、何も?」
寝ぼけ眼のピンギウは再び瓶に口を付けてひたすら酒を浴びる。
「美味い」
下世話な会話の間に漏れるこの呟きは、もはや些細な事で上機嫌になる、歯止めの利かない彼らの浅い笑いのツボを刺激した。その後も話を区切るように「美味い」の一言がねじ込まれるたびに、どっと笑い声が起こる。蝋燭もなく、簡素な中央のベッドを囲んで行われる馬鹿騒ぎには、酒と冗談以外には必要なかった。
「そういやぁさぁ、親方を弄った逸話があったよなぁ」
「ティルの滑稽話だね」
「それそれ!何だったか、酒場で聞きかじったんだが、あの話によく似てるよなぁ」
バニラはいまいちピンとこなかったが、ひたすら酒を浴びるピンギウを除けば、彼の話には心辺りがあるらしい。モーリスは顔を赤くしながら、親方の指示の通りに「皮革を迅速に乾す」為に、商品を切り刻んだ話や、ティルが新発見と言いふらして自慢げに従来の方法で糸を通して見せ、親方達に金を無心する話などを披露した。続けて、ルクスは貴族の下人として勤めていたティルが、貴族が「誇り」を大事にしている事を聞き、丁寧に屋敷中の埃を瓶に集めて主人に献上した話を語る。クロ―ヴィスは硝子職人の工房で働いていたティルが、硝子細工を売る為に「活きの良い烏」と謳って料理人にこれを売りつける話などが語られた。バニラは初め彼方此方に散らばった男の職人暦に驚き目を回したが、話が続くにしたがって、真面目に聞く事を放棄するようになった。
(なるほど、親方にいびられた弟子の鬱憤晴らしを集積したものなのか)
そう納得して、バニラは話に身を任せて笑う事を躊躇わなかった。彼らの話は多くが即興の作り話で、ティルなる人物に関する話は一つも真実を語っていないらしかった。
言葉の行き違いで笑いを誘うという種類の滑稽話の数々は、時には下品であったが、どことなく愛嬌もあった。
大盛況の滑稽話に横やりを入れるように、戸を叩く音が鳴った。彼らは一気に酔いを醒まして、顔を真っ青にしてベッドに横になる。再び強く戸が叩かれるので、意を決したモーリスが、代表者として恐る恐る扉を開けた。
そこには、屈強そうな男が三名おり、手には安いエールと水袋、そして携帯用の食糧を持っていた。
「そいつの話なら俺も知ってるぜ。ティルが写本師に弟子入りした時の話でさぁ」
目を丸くしたモーリスの背後で、泥酔状態のクロ―ヴィスが「いいねぇ!」と声を上げて酒瓶で手を振る。暫く躊躇ったモーリスだったが、男達に道を譲って扉を閉めた。
新たに噺家を得て、ティルの尾ひれは益々大きくなっていく。続けざまに下男や、行商人が部屋に食べ物を持って押し入り、新鮮なネタを提供してきた。
小さな晩餐会は、夜明けまで長く続いたのであった。