リエーフ8
リキュールの魔術が彼らの喉を十分に通り過ぎるまで過ごした後、彼らは暫く店の前で待機していた。その間にも致命的な沈黙が賑やかな二名の間に沈み込み、バニラは重苦しさに酒の味を忘れてしまいそうだった。
オスカルと酒場の前で合流し、四名はそれぞれの帰路についた。ルクス、モーリスは彼の馬車に乗り込み、学生達は月光が照らす大通りの中心を徒歩で進んでいく。
不機嫌に頬を膨らませたクロ―ヴィスは、大股で夜の街を歩く。町の明かりは消えることなく、机に向かい熱中する人々の姿を窓に浮かび上がらせている。
「あぁ、むかつく!」
クロ―ヴィスは手頃な石を見つけると、これを思いきり蹴飛ばした。街路を跳ねまわる石は壁に跳ね返り、緩やかな傾斜の道を転がっていった。
「まぁまぁ。もう少し大人になりなよ」
後について歩くピンギウは、怒りに地団太を踏んでいく子供をあやすように言った。彼は慣れた様子で、自分を睨み付けてくる低い目線を見下ろした。暫く唸っていたクロ―ヴィスも観念したのか、大きな鼻息を漏らして大股で道を下る。子攫いにでも遭わないかとバニラが彼を速足で追いかけるのを見て、街路で彼に近づいた遊女が顔を顰めて遠ざかる。バニラは冷静に、大修道院が目を光らせる中にも、快楽の園が点在する事に驚く事もできない。
夜の賑わいはリエーフの分厚い湿度を伴って益々淫靡に学生達を誘っている。荷馬車に乗り遅れてむくれる子供を先頭にすることで、彼らはこの無用な快楽を退ける事が出来たが、蒸し暑さに似合わない氷輪の瞬きから逃れることは出来ない。狭い街路を照らす妖しい光は、彼らが記憶した道を真っ直ぐに示している。細い街路を避けた導きの明かりに従って、石ころも転がり落ちていく。
「でも、今までもこういう論争はあったのに、今日のクロ―ヴィスさんはちょっと怒り過ぎですよ」
バニラは終始怒りを足元に込めるクロ―ヴィスに声をかける。大股のクロ―ヴィスの足が止まる。彼は踵を返して鬼の形相でバニラに詰め寄った。
「いいか?専門家ってもんは、自分の筋を通すためなら怪物にだって食らいつくもんなんだよ。今迄の手遊びの議論とはわけが違うの!」
クロ―ヴィスは彼に人差し指を突き立てる。バニラは気圧されて思わず後退りした。クロ―ヴィスはそのまま指でこの生真面目な学生の胸をぐりぐりと突きまわした。
「お前だって月への旅行なんて夢物語だって笑われたら理性を保てねぇだろ?いいか、これは正義の問題だ!名誉の問題じゃねぇんだよ!」
「正義の問題……?」
仰け反ったバニラは復唱する。
「そうだ。いいか?お前が月へ行く自由を、あいつの議論は奪うことだってあるんだ!俺は世間が課した鎖が無ければ罰を認めねぇし、世間が正義で暴走する事も大反対だ。あくまで俺達は俺達なりの契約で、刑罰を認めているべきなんだよ」
クロ―ヴィスは彼の肺を貫こうとするように、胸元の指先に力を込める。突きつけた指が明確な痛みとなってバニラを蝕む頃に、静観していたピンギウが間に入った。
「はいはい、分かったから、近所迷惑だから」
ピンギウはクロ―ヴィスの顔を大きな手で押し返す。荒い息遣いで怒るクロ―ヴィスだったが、暫くして再び道を進み始めた。大股はますます荒々しく、バニラは困惑したまま、ピンギウに手を引かれて歩みを再開した。
「……全く、服が貼りついて敵わないな……」
ピンギウは服の中に空気を入れるためにシャツで空を扇ぐ。汗まみれの背中は無防備に風に晒されている。
月光に青白く浮かび上がる街路を見下ろしながら、バニラは自分の爪先を見た。彼も、月へ至る方法を探る事を笑われたら、彼のように理性を損なうのだろうか。彼にはそうした確信が無かった。自分は後ろ指を指されても、部屋の隅でいそいそと設計図を描き始めるだろうと思った。
そうなると、彼は自分自身が矜持を持っていないのかも知れないという不安にも駆られた。あのように怒れるほどの情熱が、自分にはないのかも知れないと。
爪先の前は仄暗く、青白い月は彼の後ろに長い影を落としている。夜は繁華街の賑わいを伴いながら、益々雑音のような明かりを強めていく。月光は、軒先を通り過ぎる度に、バニラの足元にある革靴の些細な染みを照らし出した。彼は足を動かすたびに、この小さな染みが次の明かりで大きくなってはいないか不安になった。心なしか、実際に大きくなっているような気さえした。
彼らがジャック商会の仮住まいに辿り着いた時には、彼らの先を行く小石も道から弾き飛ばされ、闇に消えてしまった。