リエーフ7
モーリスの大学での特別講義を手伝った一行は、母校の学生達に質問攻めにあっても堂々と振る舞うモーリスの姿を見て、ある種の感動を覚えた。
講義内容は、彼の専門分野である『ムスコール大公国刑法の人道的刑法の基本法に対する矛盾に見る、カペル王国刑法の宗教的影響の重要性』である。
約三時間に渡って、ムスコール大公国におけるコボルト奴隷の人権問題から、同国の基本法との矛盾を指摘し、私刑を採用するカペル王国における、教会法による私刑の苛烈化を防止する秩序維持機能の重要性を訴えるものであった。
ムスコール大公国の人道的な基本法から見れば、カペル王国の刑罰は苛烈極まりないが、彼によれば、同国刑法は教会法との矛盾が少なく、ムスコール大公国のように基本法と刑法の抱える矛盾が多い国家とは異なる秩序維持機能を評価するべきであるという。
権威主義的なカペル王国刑法に対する非難は学生の間では非常に多く、この講義に対して批判的な質問も多く挙げられた。モーリスはこれらの質問に対して、『基本法』の重要性を列挙し、これと矛盾するムスコール大公国刑法は基本法違反である為是正されるべき事を述べる。その上で、学生達の人道化に関する意見には賛同する一方で、教会法を基礎としたカペル王国刑法がこれを乗り越える為には、教会法自体の人道化が必要である旨を述べる事で、学生達の望む結果が齎されるべきであると返答した。
モーリスの理論は、論理的整合性の高さで他を圧倒しており、カペル王国の名門・ペアリス大学で教鞭をとる者として相応しい威厳を見せつけたのである。
夕刻、教鞭をとったモーリスを待っていたのは、彼の信頼する助手でもある学生達の喝采であった。教育刑を志向するルクスは彼の意見には賛同しないが、その整合性は高く評価している。上流階級による刑罰の私有化を非難するクロ―ヴィスには刺激的であり、彼が法理論を形成するうえで多くのヒントを得た。
バニラとピンギウは学部こそ違えど、講義としての完成度の高さはよく理解している。彼らは恩師を労わり、裾の長い学用ガウンが地面を擦る事のないように、その裾を持ち上げて歩行を補佐した。
ここで一度、カペル王国の大学における正装について解説しておくのが良いだろう。学生達ははじめ、各々が望む服装‐‐例えば、体の線が露出するような、シャツが短く、密着したショースを履き込んでも良い‐‐を着て講義に臨むが、博士などのように講義に臨む者は、丈の長い黒いガウンを着こんで講義に臨む。学帽を被り、ゆったりとした服装で大きな体躯に見えるように教鞭をとるのである。モーリスは普段からこの服装を着ているが、多くの教授がそうであるとは限らない。一目では学者と分からないような人物もおり、彼らは学生に混ざって過ごす事さえある。その良い例がルクスであり、学生であると同時に、教授である彼は、普段は学生らしい普段着を着て、講義の際のみ正装を着こむのである。こうした気風は、講師であり教授である存在がいるカペル王国内では一般的なものとなっている。
さて、解説はここまでとして、彼らの話に戻るとしよう。学生達は、モーリスと共に、近場の酒場に入る。大修道院付近の高級なこの酒場では、彼らはリキュールを頼む事とした。
「懐かしい味だ」
モーリスは普段よりなお緩んだ表情でゴブレットを傾けた。レモンの爽やかな涼味と、薬草の透き通った苦みが喉を通り過ぎる。
「良薬は口に苦しと言うが、ありゃあ嘘だね、先生」
クロ―ヴィスはそう笑い、くい、とゴブレットを傾ける。彼の小さな手には少々大きいのか、両手で足を支える様はどこか子供じみている。
バニラも、この時ばかりは無駄な消費と言う言葉を使いたくなかった。もし仮に、彼がこの高くつく薬草酒を傾ける事を拒んだならば、かつての図書争議の輝きが色褪せてしまうように思われた。
ルクスは生真面目なバニラの意思を汲んで、彼の分のリキュールの代金を密かに先払いしていた。図書争議の主たる議題が、バニラの頭からすっかり抜け落ちている事など、彼にはお見通しであったのだ。
「私が学生の頃は、リキュールと騙って、蒸留酒の中に道端の草からの抽出液を放り込んで飲んだものだ。それで腹を下してね、ははっ、死ぬかと思ったよ」
「僕がもう少し年老いていれば、先生の腹痛も取り除けただろうに」
「いいじゃないですか。それもいい思い出って顔してますよ」
誰よりも早く一杯目を飲み干した男はさらりと言う。一同が彼に同意するために、顔を見合わせて頷いた。
今宵の酒蔵は赤いカンテラの灯に照らされている。程よい赤みが壁一面の簡素だがセンスの良い装飾を浮かび上がらせる。市参事会の議員と徴税吏のぼそぼそとした話し声を背景に、彼らはリキュールを舌の上で転がした。
(リキュール……鼻が透き通るみたいだな)
バニラはこのところペアリスで得られなかった多くの経験を得ている。食卓に並ぶ高級料理は驚くほど薄味だったり、逆に露店の無粋な料理はあまりに暴力的な濃口であったりしたが、中でも酒は都市の食文化を表しているように思われた。
中でもリキュールは、リエーフの高潔さを示しているように思われた。薬草の苦みは鼻を透き通り、檸檬の酸味も程よく洗練されている。ブローナの酒は良い酒だが、これもまた良い酒だ、バニラは一人頷いて、ゴブレットの中身を大切に嗜んだ。
「リキュールは、薬としての歴史を歩んだ酒だ。まさしく、クロ坊の言ったように、良薬は口に苦しだった事に悩んだ修道士たちは、修道院附属病院で、苦みを和らげる為に酒や果実を混ぜ込んでリキュールを作った。これが歴史と共に果実の比重が増えていくようになり、薬草がアクセントに成り代わったのさ」
「だから、リエーフにはリキュールが多いんですね?」
「その通り!」
ルクスはバニラを片手で抱き寄せる。思わぬ行動にバニラは慌ててゴブレットを強く握る。リキュールの透き通った緑が波を打った。
「聖職者って奴はたまにいい仕事するもんだ。酒に限らず、写本を残してくれたのもこいつらだし、昔は性欲動を秩序付けて正したしな」
そう言ったクロ―ヴィスは再びゴブレットを傾ける。荒波は宝玉の如く煌めき、吸い込まれていく。
やがてジャック邸のオスカルが豪奢な衣装を身に纏って店に入ってくる。高級なリキュールを飲み下す一同を認めた彼は、怪訝そうに眉を持ち上げて一者の姿を見つめた。従者たちが彼の着席を待って佇んでいるのに気付くと、、彼は視線はそのままにゆっくりと腰かけた。
程よい明りを継ぎ足す下男は綺麗な身なりで彼の上にあるカンテラの中に火を灯す。華やいだ席には鮮やかなベリーのリキュールが供された。
「クロ―ヴィス君は、応報刑がよいと言っていたね」
「えぇ。だから先生の考え方は俺には良く分かる。罪人には罪人に相応しい罪以上を与えるべきではないし、何より価値観ってもんは内に秘める限りは自由であるべきだ」
「そうかい?では、君は教育者を笑う罪人についてどう思う?」
「口を滑らせた分だけ償わせれば十分だろうが、そんなもんは」
「僕は正しさはその土地によって違うと考えている。その正しさに従って、人は動くべきだと思うがね」
ゴブレットを強く机に置く音が響く。高利貸や徴税吏も、話を中断して不釣り合いな集団に視線を送った。
「はいはい、もう終わり!そこまで!」
バニラはリキュールを揺らしながら二人の間に入る。怪訝そうな表情をするオスカルの姿を認めた彼は、オスカルの方を見て苦笑いで返す。オスカルは彼の事など歯牙にもかけないと言う風に、従者と共に運ばれた肉料理を齧り始めた。
ルクスは自分の理論を諳んじるために指を振り、羽根つき帽を手に取った。クロ―ヴィスは舌を出して応じる。バニラはただならぬ雰囲気を感じ取って恩師に視線を送った。モーリスは静かに手を叩き、彼らを穏やかに諫めて見せる。クロ―ヴィスは舌打ちをし、リキュールで暴言を飲み込んだ。
(ルクスさんは、罪人を正しい価値観に導こうという考え方をしているから、二人のこの手の議論は荒れるんだよ)
静観していたピンギウがバニラに耳打ちする。バニラは、すまし顔でリキュールを浴びるルクスの鋭い眼光に思わず身震いした。彼には絶対の「正しさ」を語るだけの自信があるのだろう。彼は、今回ばかりは顔を赤くしてゴブレットを叩きつけるクロ―ヴィスの方が、正しいと祈りたくなっていた。