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リエーフ6

 リエーフの市場は、古書特有のにおいに満ちていた。写本師が幾人も連なって待機するのは本屋の建物で、そこでは装丁済みの本がガラスケース越しに並んでいる。いずれも丁寧な装飾を施した豪華な書籍であり、バニラの持つような地味な装丁の安価本とは比べ物にならない。

 宝石本と呼ばれる書籍も一部見受けられる。ジャック邸からほど近い広場から伸びるのは、こうした彼らの息がかかった書籍市場である。


 当然、この市場を訪れるのは貴族や高級官僚、市の参事会員や聖職者などの高給取りであり、彼らの社交辞令も、バニラにとっては非常に刺激的なものだった。

 博士用の学帽を脱いだモーリスは、恭しく彼らに挨拶をして回る。モーリスの名を聞いた貴族達は、彼に丁重に挨拶をし、大旅行に同行する学生達にも手を振って気軽に挨拶をした。


 聳えるような建物は殆どない区域だが、木造の頑丈な建物は等間隔に立ち並び、統一感のある光景が却って市の勤勉さを物語ってもいた。


「昔はね。ない本を調達するのに、リエーフに直接赴いたものだよ」


 モーリスは懐かしそうに目を細めながら言う。


「今は安価な本がありますけど、一昔前にはなかったんですよね」


「そうだ。学生たるもの、金を惜しまずに書籍を手に入れ、貪るように学ぶべし。当時の教訓はね、安価な印刷本を受け容れないものだったのだよ」


 モーリスはガウンの袖に手を入れ、彼と年の近い貴族達の歓談を見守った。


「図書争議ですか」


 ピンギウはモーリスに訊ねる。モーリスは遠くの広い空を見つめながら、目を細めた。


「ほんの数十年前のことだ。私がまだ学生の頃にはね、カペル王国特有の気位の高さが教壇にさえ行き届いていた。翻訳、記述に対する答弁、それらは全て学識の深い、つまりは伝統的で高貴な書誌から齎されるべきだと考えていた。それが常識だった頃にはね、私のような小金持ち程度では、博士でまともに食べられなかったのだよ」


 バニラは、この恩師から聞いた珍しい武勇伝の事を思い出していた。普段は温厚で困ったような顔をする彼が、学友と共に印刷本を持ち寄って歌い語り、名門のリエーフ大学前で学生デモを行ったのだという。大修道院から駆け付けた用心棒たちは、神学をものにした未来ある若者たちの喉元に槍を突き立て、歌を止めさせた。


「教会にとって都合が悪かったのは、印刷本で聖典の中身が庶民に触れ渡る事だった。ロイ王の治世の頃に伝わった印刷技術は、一般市民の中には対立教皇の時代にも、結局長い事抑圧されていた。その間に写本師たちが残した作品は、非常に興味深くてね」


「聖典の写しの中に、『とぐろを巻くもの』や『悪臭を放つもの』を書き残し……神の羊たちに一矢報いてやろうとして、破門されたる写本師も誠に多し。それは対外的には神性に対する挑戦でもあったが、彼らが真に求めたのは学士達の自由‐‐教会が築き上げた純粋な人性へ対する挑戦であった」


 クロ―ヴィスは真面目な表情で諳んじる。恩師モーリスの生の姿を伝える、当時の年代記の記述である。


 モーリスは恥ずかしそうに俯き顔を隠す。昼下がりの学士帽は熱を帯びていたが、最早年老いたモーリスには冷静さを欠く振る舞いも必要なかった。


「見たまえ諸君、この道を。かつての学堂は主君の地位を伝える宝石本の発注地となり、今は世界の学堂には薄い装丁の印刷本が溢れている。学問の自由とは戦いの歴史だ。金の自由と同じように、それを誇るのは学生の仕事だ」


 モーリスの熱弁に、誰よりも賛同したのはクロ―ヴィスであった。彼は手を挙げて高らかに、「抑圧なき世の自由の書を」と叫んだ。ルクスは組んだ両手を解し、かつての学士の如く手を突き上げて「我は求める、薄い学堂を」と叫ぶ。


 街道は学士達の熱狂に飲まれ、図書争議を知る年老いた貴族達はその武勇に喝采を送る。傍らにその生き証人を見つけた者は、益々いい気分になり、中にはかつての学友と肩を並べてうら若き煌めきと共にあろうと集ってくる者さえあった。

 恥ずかしそうに帽子で顔を隠すモーリスだが、真っ赤になった耳を無防備に晒していた。



 だったら言うがね、使徒様諸君


 その絵を写本師に見せてみろ


「ほら、何に見える?」そう聞けば


 お前らは素っ頓狂な声を上げ、卒倒するに違いない


 写本師だって遊びじゃない、お前達だけ見ているが


 写本師だって遊び人、お前達だけを見てはいない


 見よ、広大なる文字の版、これは写本師の文字だがな


 お前達のは何処にもないぞ、その古ぼけた書見台しか


 文字を書くだけ!文字を書くだけ!細部に宿るものがない!


 ところがぼろ布の彼を見てみよ ほら、手遊びがここにまで


 主はドロルリーさえ、許したもうた!


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