リエーフ5
翌朝、頭にのしかかるような鈍痛を感じたバニラは、空になった酒瓶と観測機器を片付け、朝の日差しを身に受けて伸びをする。早朝のむさ苦しさは学舎にいる時に感じるものと近いが、何より昨日の酒臭さが部屋中にこびりついていた。
目を細め、途中で止まった計算式を片付ける。その間にクロ―ヴィスとピンギウも起床し、彼らはバニラに気を遣いながら食事を取りに行った。
今朝の献立は小さな白パンが一人一つずつと水差し一杯分であり、顎の疲れる旅先の食事としては気前の良いものだった。二人はバニラの分を手渡して彼の計算を見守る。クロ―ヴィスは目敏く計算のミスを指摘し、バニラは普段より早く日課を終える事が出来た。
ジャック邸の前で集合した一同は、改めて朝の日差しに煌めく豪奢な家屋の粋を見る事になる。ジャック邸玄関口には黒塗りのランタンが掲げられ、入場を知らせるベルが風で小さく鳴る。玄関口の過剰なこれらの装飾は防犯上有効なようで、ジャック邸に盗賊が入ったという記録は残されていない。
瓦は真っ赤に塗られた前衛的で目立つ代物で、クリーム色の壁と対比してなお強調されている。傾斜が非常に大きく落ちてくるのではないかと不安になる程である。壁には大きめの窓があり、窓を保護するための雨戸が書く窓に完備されている。表通りに位置するジャック商会の硬派な門構えと比べるとやや派手で、広い窓も手伝って陽光がよく届く作りになっている。幾つかある煙突も屋根に緩急を作るのを手伝い、派手ながら不思議なほどバランスの良い作りとなっている。
「いやぁ、リブ・ヴォールトが見事だったよ」
ルクスは帽子を被りながら手を挙げて挨拶をする。「結構なご身分で」と嫌味を返したクロ―ヴィスだったが、貧乏ゆすりが内心をよく表していた。
「まぁ、昼食どころを探しながら、少々中身についての所見を披露しようか」
ルクスは腕を組み、クロ―ヴィスに見せびらかすように顔を近づける。自慢げな表情は如何にもからかっている風で、クロ―ヴィスは厭味ったらしい彼の鼻先を指で押し上げた。
「宜しく頼むよ、貴族様。せいぜい俺達を楽しませてくれ」
博士の黒衣に身を包んだモーリスが最後に現れ、一同は散策の為に市場まで続く大通りを歩く。木造の無駄のない建物と、見栄っ張りな石造りの建物、そして煉瓦造りの豪邸が交互に立ち並ぶ不思議な町並みを歩く間、ルクスは絶え間なくジャック邸の内装を解説した。
ジャック邸に入場して先ず出迎えてくれるのが、ジャック・リエノーラの銅像だ。急斜面の屋根は二階部分を酷く使いづらいものにしていたが、高い天井のリブ・ヴォールトは交叉する壁面の間に天上の世界をあしらっていた。それはもう、貴族の邸宅と見紛うばかりの出来だったよ。少々画風は古いが……それもまた一興。広間から伸びる廊下の入り口には金細工が仕込まれ、そこ以降に装飾写本の世界が広がる。平面的で各人を強調した特有の画風で描かれた風景画は、西の廊下にはペアリスからリエーフまでの河川沿いのブドウ園の風景が描かれ、東側にはアビスからウネッザまでの森林と田園の風景が描かれていた。これを描ききるまでに半世紀近くかかったらしく、既に指示をした主人がいなかった事もあって、彼らは急ぎ量産した装飾写本を売り切り、さらに印刷機を大量導入して写本を主業から副業に切り替えたそうだ。今でも、記念品として宝石本には需要があるからね、一年で一冊を作るような大口の発注を受け付けていると、しきりに教えてくれたよ。
室内は傾斜のある作りでやや居心地が悪かったが、飾り窓も程よい広さで、月を見るには最高の立地だ。教会の飛び梁が見える高さに作られた窓からの眺めは絶景だ。夜の闇に隠れると本当に蝙蝠の如く怪しく翼を広げた飛び梁は特徴的で、これが数多寄り集まった影の様は角度を変えれば蜘蛛のように地面に根差した生物にも見えて面白い。
この小奇麗な屋根裏部屋ではモーリス教授と僕と、オスカル殿の三人でワインを嗜みながら貨幣改鋳に関して話し合ってね。金銀の含有量を減らして傾いたカペルの財政を立て直すという荒療治も、物価が上がって好ましくないだろうという結論に至った。その一方で、物価を上げたい時……つまり好景気の時にはどうか、と言う議論は難しくてね。確かに物価は上がるが貨幣の信用が落ちれば外貨に取って代わられる恐れもある。一方で貨幣の価値が下がれば、交換レートとしては輸出の際に有利に働く。国内産業を助ける役割もあるのではないか、と言う話にもなったし、閉鎖市場でなければ一行の余地がある、と言う話にもなった。
さて、寝室はこれまた見事でね……。天蓋付きベッドの中には二つの枕があり、広い部屋には金銀メッキの装飾が施されていた。派手な金遣いの室内に、ニスを塗った重厚な机があり、これが陽の光を受ける窓際に置かれている。花瓶は射的用の的のように、部屋の中央に置かれて、ここからは広い邸内への伝達用のメモ用紙がある。どこかにメインの用紙があるんだろうね、事細かに使用人への支持が書かれて、リアルタイムで自動で書き加えられるんだ。ここは、情報をひけらかさない貴族にはない特徴だろう。我儘も聞いてもらえて、実に満足だよ。
ルクスは言い終えると、一軒の屋台に目を付けた。モーリスもそれに気づき、彼らは顔を見合わせて頷くと、人数分の料理を注文する。一同は彼の話を羨みながらも、自分達とさほど変わらない就寝前の取り組みには安堵した。
「金持ちと言えど、知識には勝てねぇって事だ」
「ペンはペンスよりも強し?」
ピンギウはにたりと笑って見せる。クロ―ヴィスは彼の肩に手を回し、大声で笑った。
「うまいこと言うなお前!」
彼は肩の裏で指をくりくりと回す。それが彼が机を叩く癖なのか、自分を引き寄せる合図なのか、バニラには容易には判断しかねた。取りあえず、大事にならないように、彼に少し近づく。格子状に柱を組んだ木造の家屋が連なる広場の隅で、彼らは人通りの多さを避けるように寄り集まる形となった。
「お待たせ。今日も奢りだよ」
彼らは串焼きの団子を持って戻って来た。不思議な形状の料理を受け取ったバニラは、先ずはその料理をまじまじと見つめる。
垂れそうで垂れない粘度の高い餡がついた穀物を練って丸めた焼き料理で、形状は不思議ではあったが、特別に高価なものではなさそうである。においはそれほど強くないが、べっこう飴を舐めた時のような独特の色合いが特徴的である。
「先生方だけにいい気はさせない。なんてな」
クロ―ヴィスはバニラの耳元で囁き、悪びれる風もなくこれを口に運ぶ。餡が垂れないように少しばかり串から口に運ぶ際に用心を要するようで、彼はかなり大袈裟に顎を引き、顔を持ち上げて引き離した。何度か咀嚼した彼は、眉を持ち上げて首を傾げる。
「ん……中々弾力があるな」
「ダンピールと言う即席料理のようだ。流石は商人の町、手軽に贅沢をする名物料理という訳だね」
「揚げないスプリ、って言うんですかね。不思議な料理です」
ピンギウは一度に二つ分のダンピールを千切って食べる。咀嚼量が普段の料理より多くなるのは、弾力の強さの為でもある。
「意外と腹に溜まるな、こりゃあいいや」
クロ―ヴィスは平らげると、串についたたれを舐め切る。串を回収するための籠に放り込むと、彼は満足げに溜息を吐いた。
(なるほど……たれが無ければ節約できそうだ)
バニラは咀嚼しながら、意外な弾力に感心した。単体では味気なさはあるものの、十分腹に溜まる。例えば、串を取って皿に盛りつけ、少量の塩を付けて食べれば満足がいくのではないだろうか。彼の脳内には独自の調理法が蠢いており、口の中で転がる楽しみが、脳まで達したように思われた。
「串はあっちね」
ルクスは籠の中に串を放りながら言う。名残惜しいようにも感じたが、先端がとがった串は危険で用途も少なく、バニラは大人しくこれに従った。
暫く食べながら屋台を見ていると、やや恰幅の良い人々が好んでこの料理を食べている事が分かる。案外高価なものなのだろうかと、バニラは途端に不安になった。
「餡にいいもんが入ってるんだろ。砂糖とか、蜂蜜とかな」
「小腹が空いたときには、町を歩く時のお供にもなるねぇ」
ルクスは指揮棒を振るうようにして二本目を手に取る。
(忙しない町……)
料理の特徴を聞いて、バニラは静かに周囲を見回してみる。古書を売る小売商がダンピールを片手に早足で取引先へ向かい、馬車は高速で町を駆け回る。轢かれそうになった小僧に罵声が浴びせられ、小僧もそれを気にかけることなく、薬屋へと駆けて行く。
「あの小僧は画家職人のとこの遣いだな」
「食事を除けば、上流階級の需要に合わせた職人が多いね」
「あっちは写本師ですね」
ピンギウは一軒家の窓際を指さす。そこでは、片眼鏡をお供にした、若い学士風の男が書き物をしていた。
「文字の読めそうな写本師だ。実にいいね」
ルクスは意味深な言葉を残して、足早に市場へと向かう。大通りに面した露店には、強烈な、魅惑的なにおいを発する屋台が軒を連ねていた。