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リエーフ4

 大修道院で大いに満足した彼らは、日が沈んで夜の帳が落ちる頃に、ジャック商会の邸宅へとたどり着いた。邸宅は、大修道院から大通りを二つ隔てた西側にあり、等高線のような街路の上では中央部から四つ目の街路の辺りにあった。


「あぁ、もう。ぐしゃぐしゃだ……」


 ピンギウは服の中に風を送りながら呟く。汗ばんだ背中はシャツ越しに透けて見えており、ルクスはそれを隠すために彼に自分のマントを渡した。


 夜のリエーフは眠らぬ灯に溢れ、浮ついた熱気が漂う。ブローナの高貴な夜景と比べると世俗的であり、中心街から一歩離れれば、町は歓楽街の狂気に満ちている。教会の権威がブローナほど弱いわけではないが、夜と昼の顔を取り替えるリエーフの退廃は、教会の俗世へ対する寛容さが作り出したものである。


「何人に誘われた?」


 クロ―ヴィスはルクスに耳打ちをする。若い学生が歓楽街を通る時に誘われた回数を気にするのは、その土地の快適性にそのまま関わる為だ。


「僕は7店だね。君は?」


 クロ―ヴィスは肩を竦めて苦笑する。


「俺には昔からお誘いが来ねぇのさ。この成りだからな」


 彼は手で自分の身長を指し示す。邸宅の明かりが乗った光沢のある髪が、却って彼の子供っぽさを演出する。


 モーリスの咳払いで猥談が中断される。彼は扉をノックをし、現れた使用人に紹介状を含む三枚の紙を提示した。使用人は急ぎ客人に頭を下げ、主人の下へと走る。暫くして、騒々しい足音が響き、歓迎するように大きく扉が開かれた。


「ようこそおいでくださいました。モーリス先生。さぞお疲れでしょう、中へどうぞ!」


「態々お出迎え有難うございます、オスカル殿。お会いできて光栄に存じます」


(オスカル・ディ・リエノーラ。ジャック商会の現会長か……)


 石段の下にいたバニラはオスカルを仰ぎ見る。小太りの中年男性であり、蓄えられた口髭は蝋で丁寧に整えられていた。ピンギウほどではないが突き出た腹が、彼の豊かな様を示しているが、それはジャック商会がいち早く普及した印刷本を取り入れて事業を継続した為であり、貴族へ対する『装飾写本』の受注生産と、薄利多売を目指す『印刷本』の生産を同時に行ってきた事を示している。ジャック商会の代々会長は変化に富んだ経済状況をある程度のレベルまで把握し、ジャックによって蓄えられた財産を十分有用に使っている。


 一同は使用人の案内に従い、彼らの部屋へと案内される。モーリスとルクスは個室が用意されており、学生達は隣家の十畳ほどある宿泊室へ案内された。


「ほぉーん、まぁまぁの部屋だな」


 クロ―ヴィスは部屋を見回す。室内には小さめのベッドが3つある為、歩くには少々窮屈を感じる。ピンギウは左端のベッドの縁に座り、荷物を下ろして整理を始めた。


「雑魚寝が多い中、ベッドがあるというのは十分満足に足りますね」


「一般の商会員用の仮宿舎かもしれませんね」


「なぁー。本来は、出身が違う商人が三人で泊まるんだろうな」


「酒盛りで馬鹿騒ぎが起きても問題なさそうですね」


 ピンギウはワイン入りの酒瓶を取り出した。高級なものではなく、一般的に普及したものである。濁った質の悪い硝子の中には、黒色にも見える濃い色のワインが入っている。クロ―ヴィスは右端のベッドに荷物を置くと、即座にバニラのベッドによじ登り、ピンギウの酒瓶に向けて手を伸ばした。


「じゃあ、乾杯しますか」


 ピンギウは誇らしげに瓶を掲げる。クロ―ヴィスは歓迎の拍手をし、バニラも頭陀袋の口を緩めた。


「いいね。俺、干し肉ならあるよ」


「持つべきものは友だな。明日は美味いもん食いに行こうぜ」


 瓶の蓋が開く心地の良い音が響く。バニラは四分儀と指南魚を取り出して並べる。この部屋からならば、狭いが北の空を覗く事が出来そうだ。


「俺から頂きます」


 ピンギウは酒瓶に口を付けてラッパ飲みをする。全てを吸い込みそうな勢いであったが、分け前を気にしてか、或いは健康を気にしてか、彼は少し飲むとクロ―ヴィスに渡した。


 彼も酒瓶を傾けたが、少し口に含んでむせてしまい、バニラに手渡しする。バニラは観測機器を大事に隅にセットしながら、酒瓶を少し傾けて数滴飲んだ。


「全然口に入ってないぞ」


「貴方は飲んだ量のわりに顔が真っ赤ですよ」


「言うねぇ、いいじゃねぇか」


 再び酒瓶がピンギウに渡る。彼は瓶の中のアルコールを鼻で思いきり楽しんでから、再び瓶に口を付けた。


「観測は進んでますか?」


「まずまずかな」


「一日もサボらないのは立派だぜ、ホントに」


 クロ―ヴィスはまるで何かを払い除けるようなしぐさをしながら答えた。バニラは観測を開始し、少し心地の良い温もりが腹の中に落ちていくのを感じた。


「そう言えば、望遠鏡って奴があるよな」


「アーカテニア人が特許を取った観測具ですね。航海などでも使われているとか」


 酒瓶がクロ―ヴィスの下にやってくる。寝室にはいよいよアルコールの淫靡なにおいが漂い始めた。


「目視だけだと限界があるものもあるので、欲しい事は欲しいんですけど、金が無いんですよね」


「町で説教とかは?」


「やってますけど、食費が精々ですね」


 四分儀で角度を確認した星々を、紙に書き込んでいく。前回の計算とずれが無いかを確認すると、彼は今夜の観測結果を基に、計算式を記し始めた。


「神学の説教は金になるんだが、魔法科学はなぁ……」


「魔法学の傍系ですしね……」


 バニラは自分でも、自身の学術分野が非常に関心を得難いものである事を認知している。かつて一世を風靡した天文学ですら、その目的は神の暗雲に裁かれて覆い隠されてしまう。技術と魔法を結び付ける学問など、言うまでもない。

 彼は回ってきた酒を、普段より一層多めに仰いだ。刺激が喉にじわりとした痛みとなって下っていく。湿度を伴った温度が喉を通り抜ける間に、明瞭な思考と不明瞭な思想の境が曖昧になるのを感じた。


「それでも、月を目指すには必要な学問だ。大砲を改良するには限界があるかもしれない。それを魔術が補いさえすれば……」


「一つ聞くが、遠隔性はどう解決する?法陣術を用いるにせよ、限界があると思うが」


「分かりません。今は学んでいる段階ですから」


 ピンギウに酒瓶を渡す。漠然とした不安が目の前を暗くする。脳を包み込む背徳的なヴェールが、視界を歪ませているのが分かった。


「僕には良く分かりませんが、バニラさんにはもっと違う技術が必要なんだと思いますよ」


「俺の実験レポートを貸してやるよ。役に立つかも知れねぇ」


 彼は科学修士時代の論文を探り出す。そこには、火砲の発砲時にどの角度で飛距離がより長くなるかについて、実験と計算のすり合わせを報告するという内容が記されていた。


「物理の専門ですか。参考になります、有難うございます」


「今のおれはこの国の腐った刑罰に関心があるんだ。そいつに関する事はそのうち忘れちまうだろうさ。お前が覚えていてくれれば、失われずに済む」


 クロ―ヴィスは大きな欠伸をする。論文の概要を確認したバニラは、これを開いて直ぐに、この男の類稀なる才能を思い知らされる。生欠伸をして背伸びをする男は、半分閉じた目で「もう寝るわ」とだけ言い残してふらふらと立ち上がる。狭いベッドの隙間を壁伝いに進みながら、自分のベッドの上で寝息を立て始めた。


「それじゃあ、俺も寝ますね」


 ピンギウはそう言って最後に瓶の半分ほどまで酒を仰ぐと大きなげっぷをしてごろんと横になる。

 バニラは一人酒瓶の口を拭い、受け取った論文に目を傾けた。この酒は、朝まで続く読書のお供となった。


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