リエーフ3
学生達は思わず声を上げるほどの歓喜の時間を過ごした。この讃美歌集成の参拝を終えた後で、修道院に保管されている蔵書を幾つも見る事が出来たためだ。いずれも古い時代の写本であり、修道院が再建されたロイ王の時代、つまり印刷本が普及し始める頃よりずっと前の書籍であった為に、彼らの血的好奇心は益々刺激された。装飾写本には、庶民の生活を描いたものから、修道院の歴史を記した年代記、歌集、聖典の映しを複数見る事が出来た。分厚い羊皮紙の中には、効率化がなされていないために起こる誤字もあったが、それが却って手書き写本の良さを醸し出してもいた。
天井の高い図書館の、数多の身廊に設置された書籍は、彼らを夢中にさせた。修道院長はその様子を眺めながら、年長者であるモーリスに耳打ちをした。
「我が修道院も初めから金汚かったわけではない。当初は本当の信仰心に支えられていたのだ。それを壊したのは、ロイ陛下だ」
「あの当時、カペル王国は信仰から大きく離れた神権政治を敷きましたからね。これらの書籍に彼らが触れられたのは、大きな意味があるでしょう」
モーリスは小さく頭を下げ、胸に手を当てて見せた。修道院長は安堵した様子で同じ礼を返す。学生達の中に、一心不乱に写本を漁る学生の姿が見えた。
その学生は、装飾写本の類ではなく、専門書らしい本を幾つも読み耽っている。時には眉を顰め、時には目を見開いて驚いて見せる。修道院長はこの学生を指さした。
「あの子は?」
「バニラ君ですね。彼は『神の世界の理』に関心があるようです」
モーリスは目を伏せて答える。窓から見える眩い青空の明かりを、装飾の少ない壁は一身に受け止めている。修道院長は一瞬躊躇ったが、口元を隠しながら、モーリスに耳打ちした。
「それは……気にかけてやりなさい。とても危険な事になるかもしれない」
修道院長は眉尻を下ろした。それは憐みを持った表情であり、彼自身の過去にも思い当たる節があるようにも見えた。
「私達の時代よりは、今は自由に物が言えます。そう言う世界に変えたのは貴方でしょう?」
「その為に流した金の、こびり付いたにおいは中々消えなくてな……」
修道院長は、自ら胸ポケットの上に手を当てた。先程受け取った小銭がじゃらじゃらと揺れる音がする。モーリスは彼の肩に手を回す。気軽に話す友人のように。
「体面を気にしすぎないで、アーデス。君は良くやりましたよ。図書争議の時もね」
修道院長はモーリスに視線を向けて微笑む。彼は胸ポケットの財布から、彼がルクスから受け取った分の参拝料をモーリスの後ろで組んだ手に乗せる。
「本当に、君は律儀ですね。あとで責任を持って返しておきますよ」
ルクスはクロ―ヴィスと、一つの挿絵を巡って論争の真っただ中にある。ピンギウが本が汚れないようにそっと隅に寄せたのに気付かずに、彼らは唾を飛ばして議論を繰り広げていた。
「蔵書目録の通りに集めるには、大層金が要ったのでは?」
「あぁ。どれも高額だったから、小銭稼ぎもしなければならなかったよ」
アーデスは胸元で小銭を揺らせて見せた。モーリスは鼻を鳴らして笑い、彼らしからぬ砕けた表情を見せる。
「私の方もね、貴族の学生にパンを請う為におべっかを使うのに慣れましたよ」
アーデスはルクスに視線を送る。モーリスは首を横に振って笑った。
「ルクス先生は私以上に知識に貪欲だからね。出会った時は却って諫めて来ましたよ」
モーリスは思いついたように、「君に似ていてね」と付け加える。アーデスが口の中で舌を動かし、頬を膨らませる。視線を逸らした先には、明かりを入れるために広く取られた窓があり、窓に移った彼の顔は紅潮していた。
「君は意地悪だね。昔と比べて」
「おべっかを使うのに慣れたというのは、話すのに慣れたという事ですよ」
昼下がりの図書館の中に、賑やかな声が響く。論争はいよいよ大詰めを迎え、押され気味のクロ―ヴィスに、ルクスが人差し指を立ててアドバイスを言う。彼の中には彼の意見に対する完璧な反論が存在しているのだから、クロ―ヴィスの議論よりも遥かに洗練されていた。クロ―ヴィスが黙ってしまうと、議論は終了する。彼らは手元に本が無くなっていた事に気が付き、ピンギウに視線を送った。
ピンギウは黙って彼らの論争のきっかけとなった挿絵を眺めていた。時代的な隔たりの為に、遠近感のない歪な絵画ではあったが、彼らの論争の種はそこではなかった。挿絵の隅にある、小さな庭園から「どの年に書かれたものか」を追求する議論である。ピンギウはその部分を注視して目を細め、やがて頁を捲って別の挿絵を探す。答えを見つけたと言わんばかりに、彼は鼻を鳴らして笑った。二人が彼にのしかかるように、議論の答え合わせをする。
生真面目なバニラが読書に熱中する間にも、生真面目なモーリスと律儀なアーデスは、昔話に花を咲かせていた。