リエーフ2
リエーフの信仰を統べる大修道院、サン・チアーズ大修道院は、二度の放火に苦しめられた末、ようやく現在の形を保持するに至った。時代は四世紀程遡る。当時はカペル王国内のアビスに対立教皇が居らず、世俗の権益を教会が内包する時代であった。この、教皇の権威が翳りを見せる以前、教会勢力全盛の時代から長きにわたって、、リエーフには聖典の教えを忠実に守り伝える為のチアーズ修道会が発足した。チアーズ修道会は当初、清貧を重んじ、教会に対抗する勢力として支持を集めており、この修道院も始めは非常に小規模なものであった。しかし、一世紀程前に当たる、ロイ王の治世中期には既に教会勢力の一部と同様に、豪奢な大聖堂を建築するに至り、完成間近に、チアーズ修道会内部の保守派勢力によって修道院が放火されている。さらに、ロイ王統治末期にはカペル王国が対立教皇を擁立し、教会と完全に袂を分かつこととなった。ロイ王は正式にチアーズ修道会を対立教皇擁護下の兄弟組織として認定し、チアーズ修道会の聖職者としての権威は最高潮に達した。これを機に、チアーズ修道会ではサン・チアーズ大修道院の大改装が再び協議され、以前よりなお華美な装飾の修道院が建造される計画が立てられた。これに対して危機感を抱いた、既存の教会が反対を表明し、チアーズ修道院は再び放火の憂き目に遭った。
結局、この争議は対立教皇と有力な聖職領主との和議によって解決し、装飾写本や芸術の庇護者でもあったジャック商会の出資の下、大修道院が再び「華美な装飾を排して」改装されるに至ったのである。
こうして、古いチアーズ大修道院はロイ王没後の約半世紀後に完成し、現在の形となった。それから50年の間に、大修道院は放火前の持ち出しによって彼方此方に散逸していた蔵書を回収し、ようやくほんの数年前に古い蔵書目録の通りに図書館が復活したのである。
この古い蔵書の一つ、『チアーズ年次大讃美歌集成』は、現在ではサン・チアーズ大修道院の最重要書籍として大修道院の聖堂にある説教台に、鍵付きの箱に収められて厳重に保管されている。サン・チアーズ大修道院には所謂聖遺物の類は見受けられないが、この讃美歌集成が「商売繁盛にご利益がある」と、代替の観光資源として役立っている。
「内部は薄暗く殺風景だが、それだけにステンドグラスに刻まれた伝承がよく読み取れる。あれはアントンの献身と伝えられる逸話で、あちらはフォルカヌスの大車輪に、理想の生涯を織り込んだ模範人生集だね」
「先生、何処を指しているのかが全く見えません」
モーリスは声を頼りにクロ―ヴィスに謝罪する。包み込むように手を握られて不審に思ったのか、ピンギウが小さな声を上げた。咄嗟にモーリスは手を離すが、その肘がルクスの脇腹をつき、今度は振り向いてモーリスが謝罪した。
「先生、お疲れでしょう。暫くは私が解説をしてみましょう」
「……いや。私が解説をしよう」
壮大な大聖堂だが、長い身廊に囲まれた参拝席には背の高いステンドグラスの光は届きにくい。モーリスは足元を気にしながら、中央の説教台に向けて歩く。説教台の上には、分厚い書籍を収めるための箱が置かれている。一同が来る前に既に礼拝を始めていた人々が、箱の前に跪いて祈りを捧げているのが分かった。
「見えるか?装飾写本が、神に繋がる事だってあるのさ。薄っぺらい紙切れも、束になれば偉大だって事だよ」
バニラは彼の名誉のために、クロ―ヴィスの耳打ちを黙秘する事に決めた。冒涜的な行為が、悲惨な結果を招きかねない事を知っているためだ。暗黒の中を照らし出すステンドグラスの色彩を幾つか潜り、讃美歌集成の箱へとたどり着く。幾人もの人々が中身を見ずに地に額をつく中、学生達と教師は両の手で信仰を露わにするに留める。やがて、修道院長らしき人物が現れると、人々はこぞって小銭を取り出し、彼にその箱に触れられるようにと請い求めた。彼はそれらを受け取り、一人一人に箱の角を触れられるように近づける。それぞれが一度手に触れると、満足げに荷物を纏めて去っていった。
「実に現金な方々だね。ご利益にしか興味が無いらしい」
ルクスは目を細めて笑う。修道院長は学生達も同じように小銭を出す事を期待し、すまし顔で待機している。
「もし、修道院長様。本物の讃美歌集成に触れるには、例えばいくら必要かな?」
ルクスは胸ポケットの中を探りながら尋ねる。聖堂へ入る際の習わしに従って、彼は帽子を脱いでいたが、キャンドルが灯す明かりは、絹の煌めく様を確かめるに足る火力があった。すまし顔の修道院長は、目を細め、説教を垂れながら指先で細かなジェスチャーをする。ルクスはそれを確かめながら、財布の紐を緩めて銭貨を積んだ。
(説教で硬貨の音をかき消しているのか……)
バニラは箱の中身には関心があったので、作法としては好ましくないこれらの行動に対しては黙認する事に決めた。やがて、彼の説教が止む頃には、修道院長は箱の鍵を開け、中からさらに鍵を取り出した。
バニラは目を見開く。箱の中には更に箱があり、修道院長は自分の持つ鍵と箱の中の鍵を使って、この箱を開錠した。
「私人に富を齎す事は許さないという訳か」
装飾写本はこの箱の中にある。写本に触れれば富を得られるという逸話の為には、直接乃至は箱を通じて間接的に触れなければならないため、この二重箱の下では目的を果たせない。修道院長は静かに写本を取り出しながら答える。
「チアーズ修道会は清貧の修道会。神に祈る為に金を惜しむ輩には、神の加護が無くて当然と言えるでしょう」
「なるほど、神の加護を得るためには、紙の籠を外さなけりゃならないわけだな」
クロ―ヴィスが面白がって続ける。なおもすまし顔の修道院長は、ルクスにだけ見えるように、写本をそっと開いた。ルクスは胸ポケットから紹介状を取り出し、眉を持ち上げる。
「僕はこう見えて都市貴族との伝手があってね。貴族の誰かにそれを出せば、君は冠を被る事も出来るかもしれない」
修道院長は明かりを頼りに紹介状の内容を確認すると、それを受け取って装飾写本を大きく開いて見せた。
「おぉ、これは、見事……」
ピンギウが声を上げる。写本の中には、書籍の山に埋もれる年代ごとの修道院長が描かれ、その下に讃美歌が刻まれている。頁を捲ると次の賛美歌があり、その年に都市で起こった出来事が挿絵にされている。
「これは肉屋のカーニヴァルで起きた喧嘩騒ぎだな」
「我々は、彼らのこうした姿を見て、酷く荒んだ気持ちになったのです。写本を捲るたびに、彼らに金を持たせてはならないという事が分るでしょう」
バニラは彼の言葉を不快に感じたが、頁を捲る毎に、修道会が商会や組合を酷く嫌悪している理由にも少し同情的になった。大修道院に何度も放火を目論んだ人がおり、その度に差し押さえられていたのである。ページの最後に初めて、ジャック商会の会長と修道院長が聖堂の中で握手を交わす姿が描かれていた。
「貴方達は、庶民を軽蔑しておられるのですか?」
バニラは恐る恐る訊ねた。クロ―ヴィスは意外そうに目を見開いたが、直ぐに笑みを零す。ピンギウが修道院長の表情を覗き込み、安堵の息を吐いた。
「なに、私達は敬虔な人々を軽蔑する事はありませんよ」
修道院長は、含みのある笑みで、これに応じた。




