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ブローナ7

 学生たちの狂騒を尻目に、二人の講師はブローナ散策の総括を纏めるのに勤しむ事に決めた。脂を搾った肉も、食べ慣れたルクスにとっては大して珍しいものではない。歓声など上げる筈もなく、周囲に溶け込んだ静かな空間が醸成されていた。


 ルクスは先ず、モーリスに肉を切り分ける。モーリスは赤ワインを注ぎ、互いの食事を準備し合った。準備が整うと、互いにグラスを手に取り、目の高さに掲げ合う。


「主の恵み、カペラの慈悲に感謝を。今日と言う良き日に、乾杯」


 二人は既に狂乱に入る学生達を尻目に、グラスを鳴らし合う。一口喉を濡らした後に待っているのは、料理人珠玉の逸品。学生たちの席には無かったが、ルクスの計らいでこちらには梨のスライスがある。音を立てずにグラスを置き、切り分けられた肉を口に運ぶ。肉汁の代わりに肉に蓄えられた水分が、渇いた体には心地よく思われた。


「先生。ブローナはやはり、川沿いを往くのが優雅ですね」


「この宿も良い眺望です。少々騒々しいが、それも旅の醍醐味でしょう」


 モーリスは学生たちを一瞥する。静かに揺れる蝋燭は、蜜蝋製で悪い臭いがしない。二人は束の間の安息を楽しみながらも、渓流の流れより激しい視線の嵐を受ける学生たちの背中を案じてもいた。料理人がちらちらと、彼らの席を気にしているらしいからだ。


「先生は、チェンチュルー城事件についてはどの様に思われますか?」


「そうですね。愛妾とのトラブルについては聞いておりましたが、王妃がそれほど嫉妬深い人とは考えておりません。ただ……陛下の世継ぎが増えた時……それを見越して妨害した可能性は拭えないでしょうね」


「なるほど。それは一理ありますね。彼女はドゥー・ドーフィネよりもチェンチュルー城を好いていたという訳でもない。陛下の下世話な噂なども聞いておりましょう」


「しかし、城自体は見事と言うほかありません。水上に美しい庭園が並ぶさまも、現代の至宝といってよいでしょう」


 モーリスは脳裏にバニラとの会話を思い浮かべながら答えた。彼は食事の手を一旦休め、切り分けられた肉を半分に切りそろえていく。


「あの子は少々、技術にこだわりを持ちすぎるきらいがありますね」


「えぇ、まぁ。ユウキ博士を信奉しているという事が、後々にこの国に留まる上でトラブルになりはしないか……」


 モーリスは無邪気に話す三名を見つめる。その周りには色彩のない瞳が爛々と輝き、困り果てた様子のバニラにも、同じような視線が付きまとっている。


「僕もあの中に混ざりたいものだ。しかし、うまくいかないものです」


 青年は羽根つき帽を被りなおす。静かな声音の中には、縋り付くような迫真があった。


「大人になり切れないと、先生は仰っていたではありませんか」


 モーリスは視線を戻す。彼はまだ綺麗なままの梨を齧り、少々老体には厳しい食事を早々に退場しようとする。ルクスは帽子で表情を隠すように俯き、口元だけで笑みを零した。


「そうですよ。それでも、学生として立ち振る舞うにも苦労がいるのです。僕にも……。話を、変えましょうか」


「ケルナー家の螺旋階段も、良いものです」


「そうですね。あれはバルコニーとしても役に立つでしょう。向かいの棟が自分の居城なのも、暗殺のリスクが低い。良く考えられた建物です」


 あの螺旋階段に技術的先進性はそれほどなかった。モーリスはそうしたものへ対する、バニラの反応を思い出していた。


 彼にとって、技術が損なわれるという感覚は、彼固有の芸術的感性よりはるかに重い。モーリスはそれが分かっていて、それでもなお、チェンチュルー城を見せない事は出来ないだろうと感じていた。

 彼は静かに皿に食器を置く。銀製食器が陶器の皿の光沢を写しなおした。


「未来を背負う若い世代にとって、教育刑のない世界と言うのは素晴らしいとは思いませんか?」


 ルクスは一つ間を置く。モーリスは、教育刑に可能性を見出すルクスの思想を危険視している。それは、バニラのような学生へ対するものもそうだが、何よりも刑事手続きの人道化の歴史を探ってきたモーリスの悲願を退けるものであったためだ。


「以前、先生の古代刑法全書を拝読いたしましたが、未だに私刑が一部偶像化されて崇拝される事については、先生は反対なのですか?」


「どうでしょうか。それは歴史を捉える目の違いでしょう。いずれにせよ、私は先生の考え方には賛同いたしかねます。……そうした思想によって、新たな思想や異なる知性が壊されはしないか、そう考えてしまうのです」


「優れた知を追求するならば、私はある程度の犠牲はつきものと考えておりますが」


「そうですか。では、優れた知が足を止める時と言うのを、私は期待しなければならないでしょう」


 老人は最後に一杯の水を飲み干す。ワインを拒むように自らに空いたグラスを寄せながら、ルクスに対して困ったように微笑みかけた。ルクスは肉を頬張る。彼にとって、この肉と被検体とには、さほどの違いも見いだせないのであった。


「先生は優れた学者だが、どうやらこの点については相容れないようで残念だ。……まぁ、バニラ君。彼に関しては、私は排斥するべき無力な人ではないと信じていますよ。旧きを温めて新しきを知るのも、知の探究に必要な作業でしょうから」


 ルクスは赤ワインを仰ぐ。モーリスは祈るように、「それは良かったです」と呟いた。彼の背中からは、椅子貴族を賛美する歌声が、高らかに響いていた。


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