ブローナ6
夕刻の鐘ぎりぎりに宿に戻ると、既に食堂は自分達と同じ目的の人々で溢れかえっていた。一同は荷物をそのままに、直ぐに席に着く。今夜のメニューは、貴族も満足しそうな豪華そのものの食事で、茹で野菜、鶏肉の蒸したもの、そして柔らかいパンとバター、ブルーチーズ、ピンギウ垂涎のエールだった。
今回も残席を埋める形となったため、モーリス、ルクスはピンギウ、バニラ、クロ―ヴィスとは離れて座る事になった。
生真面目な苦学生であるバニラにとって、身なりの良い人々の中での食事は何かと窮屈に感じられる。衣装に気を配らない二名と席を囲んでいる事は、この良い宿が持つ煌びやかな雰囲気を緩和するのに役立った。
とは言え、奔放な遍歴学生達が、バニラのように繊細に気を配る事などない。着飾った有力者たちは、目を瞬かせながら、学生達の食べっぷりに釘付けになっていた。
安宿では小さな円卓に手狭な椅子があればいい方で、中には雑魚寝をして食べろと言わんばかりの食堂もあるが、この宿は比較的柔らかい腰掛が用意されているため、学生達は城廻の興奮をそのまま自分の尻に込めていた。
ピンギウは深く腰掛けると、満足げに貧乏ゆすりをする。向かいに座るクロ―ヴィスは、何度か座席の上で跳ねて柔い綿が隅による感覚を楽しんだ。
「いやぁ、いいねぇ!旅先でこういう椅子は珍しいぜ」
「二人とも……」
食事が運び込まれるまで、この居心地の悪さを感じなければならなかったバニラだが、寧ろ食事が運ばれてきてからの方が、苦痛だったと言えるかもしれない。
共鳴するベルの音と共に、席に運ばれた食事は、実に色鮮やかなディナーである。先ずはピンギウが店員から酒を奪い取り、一気に飲み干した。
乾杯の音頭を待っていたバニラはジョッキを手にしたまま、既に空になったジョッキの中身を見下ろす。眉が自然とピクリと動いた。
「あ……乾杯」
「あ、あぁ。乾杯」
ピンギウは空になったジョッキを持ち上げ、バニラのジョッキと突き合わせる。円い隙間を埋めるようにして、クロ―ヴィスのジョッキも勢いよくぶつけられた。
「待ってました!乾杯!」
バニラは少しずつ、クロ―ヴィスは豪快に喉を鳴らしてエールを飲む。爽快な歓声が自然と漏れ出るのを、もの欲しそうにピンギウが見つめていた。
バニラは偶々と彼と目が合ってしまい、まだ余裕のある自分のジョッキを覗き込む。クロ―ヴィスはチーズを隅に寄せ、早速鶏肉を切り取って齧る。彼なりに思う所があるのか、咀嚼するたびに彼の表情が険しくなる。期待した鶏肉はあまり歓迎できる味ではなかったようだ。
「ジョッキ出して。次来るまでの場つなぎね」
バニラは机に肘をかけてジョッキをピンギウに近づける。ピンギウはそっと空のジョッキを手に取り、聖水でも授かるかのように両手で酒を受け取る。
「おぉ……施しの英雄よ」
バニラは思わず乾いた笑いを零す。背徳の福音を授かったピンギウは、このジョッキに手を添え、自分の机に置く。そして、今度は食卓に手を合わせ、天を仰いで祈りの口上を述べた。
「恵みある大地よ、汝らに女神カペラの祝福あれ」
「なぁに畏まってんだ?余程口の中が寂しいと見える」
クロ―ヴィスは天に感謝するピンギウの口の中に、自分が手を付けないブルーチーズの一片をねじ込む。一瞬苦しそうに呻いたピンギウは、これに即座に適応してそのままの姿勢で咀嚼をし始めた。
「俺が指を汚さずとも、恵みは私の口に運ばれるのと言うのか……。何という慈悲深さ……!」
「おい、施しの英雄様も施してやれよ」
「俺は好きなものを食べるのが良いと思います」
「自分で取りに行けってよ」
クロ―ヴィスに言われるなり、ピンギウは取り皿に机上の料理を全種類、少しずつ乗せ始める。太い指が食事を取り上げる様が妙に繊細に見える。
「そうだ。バニラ、初めての城廻りはどうだった?」
「川沿いにあれだけ城があるっていうのは、圧巻ですね」
バニラは率直な感想を述べた。ペアリスであれば、貴族の邸宅は王宮の周囲に固まっており巨大な集合住宅のようにも見える。それだけに、バニラにとって、ブローナの支配者たちがそれぞれ作った分散されたシャトー群は、まるで貴族を侍らせるようなペアリスのそれよりも新鮮だった。
赤い照明が揺れ、クロ―ヴィスは何気なく燭台の位置を中央に動かす。バニラの仄暗い視界が視界の末端に向かい、周囲の視線が目立たなくなった。
「これまでは教会ばっかりだったからな、ああいう趣向もいいもんだろ?」
ピンギウが肉を追加で削ぎ落とす。からり、とナイフを放る音が響き、続けて、咀嚼音、喉の鳴る好い音が続く。
「やっぱり城って言うのは、教会にはない奔放な造形が多いですね」
「ルクスみりゃ分かるだろ。あれらは見栄の塊なんだよ。見栄の為に散財して没落する奴らさ」
彼は肉を避け、ソースがよく絡んだレタスを頬張る。しゃり、と言う心地よい音が響いた。
「そう言いつつ、椅子貴族なんてのもいますからね」
ピンギウは続けざまに肉を切り取る。バニラはパンにバターを塗って嚙り付いた。彼にとってこの脂分は有り難いもので、焼き、茹で、蒸して脂を抜いた肉よりは舌にも腹にも心地良く溜まる。
「はっは!椅子貴族なぁ!」
クロ―ヴィスは膝を叩いて笑う。食堂の外へと消え始めていた視線が再び集中する。視線はバニラに刺さったままで静かに部屋の外へと消えていった。
「いやぁ、しかしな、椅子貴族は案外打算的な所があるから、侮れねぇぜ」
「傅く対象がそれでは、ティルの事を言えませんね」
ピンギウは機嫌よさそうに返す。彼はあまり手が付けられていないブルーチーズを自分の近くに寄せ、やや大げさに頬張った。
「椅子貴族って……食事の時にする話ですか?」
バニラは鼻の奥に膿が溜まるような感覚を覚えた。
「バニラぁ、酒の入った時くらいしかこんな話しないだろうが」
ピンギウの下に三杯目のジョッキが届けられる。少し店員の視線が険しいが、ピンギウは構わずに続けた。
「窓から海綿が放り投げられているのを見た事があるんですがね、綺麗に洗ってありまして。椅子貴族の苦労っていうのは、大変なものですよ」
「どぶ浚いも裸足で抜け出すかもな。見栄っ張りのお輿って奴は大体面倒なもんだ」
気付けば、学生達と講師以外の客が既に部屋に戻っている。クロ―ヴィスはジョッキを手にもって立ち上がった。
「それじゃあ、椅子貴族の苦労を労って、一曲歌って〆るとするか!」
ピンギウが手を叩いて笑う。バニラは少し引き気味に講師たちに視線を送った。助けを求める視線に背を向けて、二人は別の話に熱中しているらしい。
「 くるぞ、くるぞ!陛下が来るぞ!
そら穴あき椅子を持て
海綿の準備は済ませたか?それでは行くぞ、椅子貴族
くるぞ、くるぞ、陛下が唸る!
ぽとぉんと一音なったなら、鼻をつまんで磨くのだ!
貴族様は陛下が大好き、椅子貴族なら大嫌い?
くるぞ、くるぞ!陛下が叫ぶ!
すぐさま海綿持ち寄って、心地よく、それを拭い取り
最後に残ったそれを見て、椅子貴族でも舌を出す」
バニラは厨房の方を見る。店員たちが耳打ちをしている姿が、妙に居心地が悪く思えた。