ブローナ5
馬車は川沿いを進み、巨大なアーチ橋を渡る。これは近年になってやっと作られた橋であり、幾つもの分厚い足によって何とか支えられている。この橋を渡るだけで、渡し賃がかかってしまう程、大規模な工事だったという。
「しかしこの川の広さはとんでもないなぁ……」
ピンギウはそう言って深い青色をした川面を見つめる。
支柱と支柱の間には、中規模の帆船が、帆を折りたたむ事で通過できるほどの余裕がある。ところが、日の浅い綺麗な橋の他には、この地に橋は見られなかった。
「大きな川があるのに、狭い場所にでも橋は作らなかったんですかね?」
「そりゃあおまえ、ブローナは戦乱の舞台だったからだろ。安定してきたから聖職者が散財した橋があるだけで、いつ蜂起やらクーデターやらが起きてもおかしくないのに、こんな大層な橋なんか作らねぇよ」
クロ―ヴィスはつむじを押さえながら言う。ルクスが顎を乗せようとするので、彼はかなり力を込めてルクスの頬を引っ叩いて退けた。
「……どういうことですか?」
ルクスは頬を押さえながら、向学心逞しいバニラに向けて解説をする。
「つまりはね、仮に有事の際に、橋を簡単に取り壊せるような構造にしておかないと、敵の攻撃に耐えられないんだよ」
バニラは一瞬空中で視線を泳がせる。ルクスは頬に置いていた手を顎に当て、言葉を練り出すためにゆっくりとした口調で続けた。
「例えば、対岸に敵がいたとして……その敵がいる対岸に頑丈な橋が渡してあった場合、どうなると思う?」
「……橋を渡ってきますね」
「そう!つまり、ケルナー家とデフィネル家が両岸を統治する状況に相応しいのは、敵の侵攻を阻める『壊しやすい』橋って事だ!」
「つまりだな。ここに長い事橋がかかってなかったって事は、技術的な問題だけでなく、『歴史的な問題』もあったって事なんだよ」
「そうすると、これは一種の外交革命ですね」
ピンギウが顔を車内に向けなおして言った。真下を通り抜ける船は、再び帆を上げようとしている。
「……まぁ、ケルナー家にとっては、デフィネル家と王家に恩を売っておいて、デフィネル家にブローナから出て行ってもらうつもりかも知れねぇな」
「さぁ、どうだろうね?単に見栄の張り合いのような気もするけど」
ルクスはピンギウとクロ―ヴィスの顔を覗き込んで言った。背の高いルクスが間に入ると、途端に二人にとって窮屈な空間が出来る。モーリスはルクスの腿を軽く叩き、彼に干渉を諦めるように促した。
これに渋々応じてルクスが席に着くと、いよいよ長い渡し橋の対岸に、馬車は行きつこうとしていた。
「次に見る城は少し川の上に建っているのだがね。君達の話にも関連するような城だよ」
「川の上……ですか?」
バニラは想像を絶する状況に顔を顰める。ピンギウがやや上ずった声で話に介入してきた。
「ついにここ十年で最大の闇に触れるわけですね」
「楽しそうだね、ピンギウ君」
モーリスの言葉に対して、ピンギウは苦笑して席に着きなおした。その後しばらく、馬車は川沿いの道を進む。暫くの雑談の後、城壁の水門が遠目に見えるあたりに、川に接した壮麗な城が突如として現れた。
「これが、今回最後の目的地、チェンチュルー城だ」
「かつては愛妾の邸宅、現在は蛇の邸宅。ジャンヌ・アントワネット王妃がアンリ王の愛妾が住んでいたこの城から愛妾を追い出した、なんて噂があるのさ」
「実際はどうだかわからないけどね。僕の知る限り、王妃は息子の敵以外にさほど関心は無いと思うよ」
ルクスは帽子を被りなおす。馬車は城の前で停車し、警備兵が馬車に近づいてきた。
「何用だ……。ん?その羽根つき帽、ルクス殿ではないか」
兵士は派手な兜の中から細い目でルクスを見る。バニラは、彼の構えている槍に思わず身動ぎする。強い警戒心を向けられたルクスは、羽根つき帽を勲章か何かのように強調して見せびらかし、兵士に手を振って挨拶をした。
「やぁ、何、美しい外観を眺めに来ただけですよ。友人とね」
兵士は怯えた様子のバニラを一瞥する。彼は汚いものでも見るようにこの如何にも貧困そうな苦学生とルクスを見比べ、鼻を鳴らした。
「友人……。物好きな事で」
兵士は下らないというように警備に戻る。今は城の主人もいないのだから、中には城代がいるかどうか、と言う事で気の抜けた警備しかしていないようだ。
「……いいんですか?」
「見るだけならタダだよ、見るだけならねー」
ルクスは帽子を整えて下車する。彼の後に従うように一同は降り、無関心な警備兵の守る門の前ではなく、良く城の外観を見渡せる位置に留まった。
チェンチュルー城は幾つかの美しい庭園に囲まれた、比較的新しい城であり、本棟のすぐ隣に監視塔にしては太い円筒状の建造物が建つ。見事な庭園の庭木は良く整理されており、領内には専用の花壇や畑などもある。肝心の外観は、円柱状の尖塔が建築物を支える本棟と連結する、川に突き出した本棟よりも一階層分背の低い建物が特徴的である。屋根は淡い青色であり、清潔感のある白い壁と地続きのような清楚で奥ゆかしい色をしている。
「あの川沿いの建物は元々は製粉場で、浅い所まで川にかかったアーチを船で渡るのが、王妃のお気に入りらしい」
「確かに、綺麗な建物ですね」
「とはいえ、川の真上の棟は湿度とかやばそうだよな」
「そこは、建物自体の美を優先する、都市貴族らしい価値観が働いたのだと思うよ」
バニラは川沿いの突き出した建物を見る。わざわざ船が通過できるように開かれたアーチは宛ら水門のようであり、水車小屋の名残なのか、アーチの下には小ぶりな水車が、単なる装飾として回転している。
彼は静かに拳を握り、その無意味な駆動に強い憐みを感じた。水車は手持ち無沙汰にゆっくりと回転し、水流に合わせて水をくみ上げては川に戻していく。本棟から視線を少し外すと、円柱状の背の高い建物もある。本棟に合わせた淡い色彩で小奇麗ではあるが、彼にはその建物が元々何であったのか、と言うのが簡単に想像できた。
(あそこにあったのは穀物庫だ……鼠対策に基礎が一段高くなっている……)
バニラはこの小奇麗な城に対してあまりいい印象を受けなかった。自分がこれから学びたいと考えている類のもの‐‐つまりは装置や、工学的知識について‐‐この建物はそれらの技術に対して不誠実であるように思われたためだ。
「バニラ君は、芸術の為に、古くからある技術が失われていくのが惜しいのか?」
「先生……。えぇ、正直、戸惑っています」
「そうか。君は連れてきて正解だったかもしれないね」
ルクスは視線を下ろす。足元には、庭園から種子が飛ばされてきたのだろう、小さく鮮やかな赤い花が咲いていた。
「このチェンチュルー城は……貴族達によって建てられた芸術の象徴だ。君の思想とは相容れないが……技術とは、新たなもののお陰で役割を終えるものでもある」
「えぇ……分かっています」
バニラは唇を噛む。モーリスの言葉は正しいが、過去の技術と言うものが忘れ去られてしまうのは酷く惜しい。それがいつか、手痛いしっぺ返しになりはしないかと、バニラは不安にさえ思うのだ。
水面は建物の下をサラサラと流れる。流れに合わせて動く憐れな機構は、今もなお、過去と同じように駆動し続けていた。