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ブローナ4

「……なんだかやつれてるね」


「いやぁ、ははは……」


 学生一同はモーリスの言葉に苦笑いを返した。早朝だというのに酷い隈のある彼らは、小皺こそ多いが健康そうなモーリスの表情を見ると、昨晩の熱狂を後悔した。

 一方で、バニラは最近では珍しく、良い夜を過ごせたという満足感をも感じていた。


 疲れた様子の三名に比べ、疲労の色こそあるが晴れやかなバニラの表情は、モーリスには奇妙に映ったのだろう。小首を傾げた彼に対して、バニラは必要な荷物だけを纏めた小さな鞄を肩にかける。モーリスは自分の荷物の中から鋭い金属の類を取り出すと、全て宿主に預けた。


「暗殺が横行していた都市なのでね、君達も旅で使ったナイフやら殺傷能力のあるものは預けていきなさい」


「バニラにはあんまり関係ないな」


 クロ―ヴィスは鞄から細かい針などを宿主に預ける。不当に馬鹿にされた気分になり、バニラは鞄の中を探る。古い観測器具や手帳の類があるばかりで、鋭利な刃物などは入っていなかった。仕方なく、腰に帯びたナイフを宿主渡し、元の位置に戻って深い溜息を吐いた。


「酒瓶は預けた方が良いですか?」


 ピンギウは道中で消費した酒瓶を、鞄から取り出す。モーリスの呆れた視線が無防備なピンギウに向けられる。


「預けた方が軽いのではないかな……」


 ピンギウは特に気にするでもなく、鞄ごと宿主に預けた。苦笑いをした宿主は、二つ返事でこれを請け負う。受け取った荷物からは、ざらり、という硝子の擦れる音が響いた。


 ルクスは帯剣を宿主に預け、代わりに金を支払って杖を借りる。三本目の足は道具と言うよりは装飾であり、銀細工のアクセントがついている。ルクスは銀細工の部分を構いながら、「変色しない事」を確かめた。


「ははぁ、貴族様は大変ですねぇ」


「そうさ、金がかかって困るよ」


 ルクスは革の手袋をし、再び杖を握る。彼は窮屈そうに身動ぎをすると、足早に馬車へと向かって行った。


「さて、私達も行こうか」


 モーリスは足元を気にしながら宿を出る。外には既に、出迎え用の馬車が待機していた。


 旅行用の馬車もまた豪華な代物だが、バニラが乗り込んだ出迎え用の馬車はさらに豪華な代物だ。必要以上の装飾は却って居心地を悪くし、何よりモーリスが少し苦労しながら乗り込まなければならない高さの段差が昇降口にある。バニラが乗り込むと、甘ったるい香水のにおいが残る馬車に揺られながら、学生達は大きないびきをかいている。モーリスは起こすのも憚られて、ブローナの河川敷をぼんやりと眺めている。バニラは指を折りながら、カルテの戦略について思索を巡らせている。


 彼らの道中を追いかけた人々にとって、この手の静寂が奇妙なほど珍しいものである事は容易に想像できるだろう。しおらしく祈る為にみすみす機会を逃すような連中であれば、何も、遍歴学生など気取っていない。遍歴学生はどの都市でも一波乱起こすのだから、社会にとって害悪でしかないし、言い様に見られる事もない。従って、疲労困憊で城の外観を見逃すような不利益を犯すならば、初めから学生の身分で都市を渡り歩く事などしないだろう。


 とは言え、話す人のない中で、モーリスの見た景観を一つ一つ切り取るのもまた、味気ないものである。バニラの脳内がかように錯綜していようと、切り取るとすればこの無知な学生が見た景色について語るのがよいだろう。従って、彼の無意識下での景観について、無言の彼らに代わって逐一説明しなければならない。


 ブローナの城を巡るならば、まずは川沿いを進むのがよい。清流のせせらぎに合わせて馬車を走らせれば、川に面した幾つかの美しい城が見られるからだ。王家に連なる者達による支配は、ブローナに賑やかな旧市街の代わりに、芸術の花咲く一等地としての地位を授ける事で、彼らを屈服させる事にした。


 まず、ブローナの河川沿いに進んで初めに見られるのが、二重螺旋のドーフィネ城である。

 王太子時代のロイ王が改築を命じた事から呼ばれ、白い外壁の彼方此方に、海豚の日差し除けが飾られている事から呼ばれている。

 実に一世紀以上も時を隔てた近世初期の都市宮殿には、古典的な控え壁(バットレス)構造が見て取れる。聖堂建築時代に大きく躍進した建築技術によって、このやや古臭い分厚い控え壁は長らく忘れ去られていたが、ドーフィネ城はこの重厚に突き出した壁に装飾を施す事によって、それを補っている。

 この様式は古いが特殊な感性が光る城は、一目ではバニラにその価値を認識させなかったが、思考が途切れ通り過ぎる一瞬に、彼は目前にあるドーフィネ城の細部の手の込みように驚き、目を奪われた。思わず馬車を乗り出して突き出た壁の陶製人形のような装飾を見送ると、彼は臍を噛む事になった。ドーフィネ城の跳ねドーフィネの日差し除けを見逃したからである。日差し除けであるため、この装飾は色が暗くなりやすく、建物とも同化しているため、彼の思考が稼働している時には気づきづらかったのだろう。この反応を見て、モーリスはバニラの袖を引き注意を向ける。


「あ、すいません。つい……」


 バニラは自身が余りに危険な行為をしているから怒られたのだと直感し、反射的に謝罪の言葉を述べた。ところが、彼の恩師は寛容にもこれを受け流し、彼の視線を別の窓へと促した。バニラは寝息を立てる仲間達を跨ぎ、向かいの窓を覗き込む。


 ドーフィネ城の対岸には、ほぼ同時期に新築された貴族の邸宅(シャトー)がある。これは、聡明なロイ王太子が王家のしきたりに従ってヴィエンヌ侯爵領に比較的早く引っ越しする事になり、ドーフィネ城の完成を見られぬままヴィエンヌの地に赴任する事となり、本来であれば巨大な川を跨ぐ建物同士に吊り橋を架け、対岸までを見下ろす王家の統治を示そうとしたにも拘らず、実現しないまま個別の邸宅となった建築物である。通称、ドゥー・ドーフィネと呼ばれ、この地に王太子の代わりに派遣されたデフィネル家によって建築が再開されたものである。橋を渡すのは技術的な問題によって結局実現しなかったが、二つの城は結果的に全く異なる様式で建てられるに至ったため、最終的にはテーマの散逸が避けられたと言える。

 ドゥー・ドーフィネの特徴は、左右完全対象の端正な外装にある。建築様式としては比較的新しく、サン・カミシア大聖堂に近い幾つかの尖塔と、両翼の屋根をドーム状に整えている。ドゥー・ドーフィネの完成にはデフィネル家の好みが大いに反映されたため、結果的に古い形式の控え壁などは突き出しておらず、全体的にはすっきりとした印象を受ける。勿論、ドームを支えるための工夫が認められるが、その程度であり、景観を崩さない。バニラは今度は首だけで覗き込む。混雑した川沿いの道も良く見渡す事が出来た。

 当時のデフィネル家は元来王太子と共に赴任先に赴く事になっていたが、速急な対応が求められた結果、兄が王太子と共にヴィエンヌへ、、弟をブローナに留める事になった。こうして、王太子の補佐としてヴィエンヌに赴いた兄系と、この地に落ち着く事になった弟系の家系に分かれていく事になるが、現在は兄系が断絶し、弟系の血統がヴィエンヌへの赴任も任されている。真っ白な宮殿にはいまも明かりが灯り、窓際で何者かが執務しているのが分かった。


「……重てぇんだけど」


「あ、いや、すいません!」


 クロ―ヴィスが悲痛な声を上げて、身を起こす。大きな欠伸の後、教授に短い挨拶をした彼は、現在地点に気が付くと、バニラよりはやや控えめに窓から顔を出した。


「市場も混んできたな。……お、ドゥー・ドーフィネ。やっぱり綺麗だな」


 バニラは、少し寝ぼけているのか、言葉遣いが存外穏やかな事に驚かされる。彼は半開きの瞳をバニラに向けた。


「次はそっち側に変わった城が見える筈だぜ」


 ドーフィネ城の方を覗き込む。まだやや距離が遠いが、立ち並ぶ商家や組合会館、工房の中に紛れて、大きな庭園を背後に据える城が現れた。


「ブローナ城だ!」


「ケルナー家の邸宅だ。デフィネル家ほどじゃあないが、まぁ、この辺じゃあ三本の指に入る名家だな」


 ブローナ城はブロア家の居城として古くは栄えた城であったが、現在は彼らの代わりを務めたケルナー家の邸宅となっている。デフィネル家とは激しい競争関係にあり、ケルナー家は現在のブローナの統治について不満を抱いているという。


 バニラはまず、ブローナ城の半分、つまり旧棟に当たる建物に注目する。旧棟は、正面から見ると二つの煉瓦による色彩の演出に特徴がある。大きな扉の上にあるタンパンには、騎乗するブロア家初代の大理石の像が建ち、川沿いの家屋を見据えている。梁には菱形に半円を象った意匠を用い、急峻な傾斜のある屋根を支えている。青い屋根を辿ると3つの赤煉瓦製の煙突があり、その位置に沿って窓が並んでいる。大きな煙突を隔てて部屋がある事が窺えるが、これが赤のアクセントとして、外観も平坦にならないように作られている。


「ブローナ城にはもう一つ棟がありましたね」


「あちらだ。ケルナー棟と呼ばれている」


 モーリスは丁寧に指先を揃えて、ケルナー棟を示す。旧棟に直角に隣接するように建てられたケルナー棟には、八角形の螺旋階段が突き出ている。この壁から突き出した螺旋階段は吹き抜けになっており、丁度従者を従えたケルナー家の貴族らしい人物が階段を昇っているのが窺える。


「変わった螺旋階段ですね」


「凝り性のケルナー家らしいな。お高くとまったデフィネル家のものよりは派手な建築だよな」


 眼が冴えて来たのか、クロ―ヴィスは窓に顎を付けながら建物を覗き込む。旧棟入り口にあった像と同様に、この突き出た八角形は川沿いの建物を一望できる壮麗さであり、支柱には小姓の像を、最上部の梁にはカペラの立像を彫り出している。突き出た螺旋階段を支えるのは真っ白な建築物であり、滑らかな支柱の柱頭はイオニア式を思わせる装飾が施されている。幾つかの細かな支柱で区切られた建物は、旧棟と異なり、赤レンガを強調した煙突を持たず、角を白の煉瓦で縁取るように整えている。また、高く突き出た煙突ではなく、屋根から顔を覗かせるような小さな煙突を持っており、旧棟と比べると色彩はやや大人しい。


「おぉーケルナーの所の!いつ見ても変わってていいね!」


「おい、くっつくなって!」


 ルクスは飛び起きるように即座に反応する。嫌がるクロ―ヴィスの頭頂に顎を乗せている。クロ―ヴィスが振り払おうと顔を動かすので、ルクスは面白そうに笑いながら顎を擦り合わせてじょりじょりと鳴らし、彼の髪の毛を乱した。


「あ゛ー!」


 クロ―ヴィスの悲鳴に応じるように、大いびきをかいていたピンギウが目を覚ます。腹を摩り、一つげっぷをした彼は、鈍重に窓から身を乗り出し、城の様子を眺めた。彼らの賑わいを察して、馬車自体も速度を落としていく。


「おぉ、これが八角形の螺旋階段ですか。見事」


「君達、少し危ないから落ち着いてくれ……」


 モーリスの言葉を受けて、バニラは顔を出すのをやめて席に着く。クロ―ヴィスがすぐさまバニラの顔のあった位置に逃げると、今度はピンギウが彼の頭上から顔を出した。


「あ゛ー!お前らなぁ!」


「別に禿げるのでも無いし、いいじゃないですか」


 ピンギウは寝ぼけ眼のまま、クロ―ヴィスのうなじの辺りに二重顎を乗せた。


「お前に関しては普通に重いの!」


 バニラは乾いた笑いを零す。馬車の横を素通りする人々は、この騒々しい意匠を見上げて、笑いながら足を速めていく。


 ブローナ城は、川沿いの街並みの発展を見守るようにして、この賑やかな遍歴学生たちをも視界に収めた。八角形の螺旋階段の上で、カペラの像が朗らかに微笑み、馬車が横切るのを見守っていた。


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