ブローナ3
人間の欲望が発露するのは、決まって夜の淫靡な雰囲気に酔ったときである。それが仮に闇の中から訪れるのであれば、地下室はまさに格好の場所であると言えよう。賭博行為は国家の監視の下で合法的に行うべきとされているが、宿の地下であれば穀物の入った木の箱を机に、中腰でこなす事が出来る。
「夜の楽しみと言えば、風呂屋と賭博場だろう?」
「……はは」
バニラはひきつった笑みで返す。この生真面目な学生にとって、風呂屋も賭博場も縁遠いものだからである。一方で、クロ―ヴィスは持ち寄ったカルテを取り出し、勢いよくシャッフルする。彼はカルテを木箱の上に置き、さらに銀貨を一枚差し出して、厳つい男のいる机の上に叩きつけた。
「お前、俺のペテンを破れるか?ちょっと試してみたくてね」
男は、獲物を捕らえる犬歯を剥き出して笑った。
「あぁ、いいだろう。見破ってやる」
「面白れぇな。じゃあ、早速始めようか?」
男は慎重に銅貨を二枚木箱に置く。クロ―ヴィスはは自分のカルテに手を当てて叫んだ。
「神はこれより、私に啓示を授けるだろう!この盤上では、ピケをするのが最上と仰せられた!」
「ほぉ、ピケか」
一つの木箱越しに向かい合う男達の眉間に注目しながら、ルクスは樽に肘をかけて眺めている。彼の周りに他二名が集まり、男達からは鬼気迫る雰囲気が溢れ出し始める。一方は、探るようないやらしい目つきで、もう一方は、隠すような険しい表情で。
「ピケ?」
「一般的なトリックテイキングゲームです。ルールは、まぁ、見ていればわかります」
神と紙の擦れあう音が何度か響く。ペテンを見抜こうと指の運びの細部に至るまで向けられた視線は、しかし、それらしい兆候を見つけ出す事が出来なかった。
細い指先が一枚一枚を撫でるようにしながら、二人分の手札を積む。それぞれの手元に、12枚のカードが配られた。
「さぁ……あるか?」
クロ―ヴィスは両の手を広げたままで言う。奇妙な緊張感に張り詰めた空気は、男の呼吸に合わせてひりひりと動いた。男は首を縦に振る。クロ―ヴィスもまた、首を縦に振り、続けて男が手札を選別して山札から同数を引いた。クロ―ヴィスも同様に手札を切り替える。
さり、という紙を弾く音の後で、二人は静かに手札を並べ替えた。
「展開がわからない?」
ルクスがバニラに訊ねる。バニラは無言で頷いた。ルクスは暫く考えてから、対戦中の二人に聞こえないように、ごく小さな声で話した。
「まず、絵札……のカードがあるかないかを確認し、一切なかったら十点がもらえるんだ。続けて、マリガン……つまりは、引き直しだね。手札をこれで整えるんだ」
「……大体わかりました」
バニラは短く礼を言い、盤面を確認する。薄い山札を隅に避けた二人は、数字とカードの種類を言い合い、その度に点数を確認した。さらに、再び数字を言い合い、同様の行為をする。この作業を二回続けたのち、今度は互いにカードを出し合い、多い数字の方がカードを自らの隅に置いていく。これを最後の手札が亡くなるまで繰り返し、最後に点数を確認し合った。
バニラはルクスに視線を送る。ルクスは一度頷いた後、髪を整えながら答えた。
「手札を整えた後に、数字を比べ合う。ほら、カルテには上部に模様があるだろう?この模様の同じものの数を比べ合うんだ。それが同じだった場合は、続けて一番強いカードを言う。それで同じ数値のカードでなければ勝敗が決まる。同じ数字だった場合、お互いに加点無しだ。次に、階段の枚数を数える。これも多かった方が、得点を得る。そして、最後のは先手が提示したスートのカード中から、いずれかを出して、スートの強かった方がそれにつき1点を得る。今回は、ペテン師さんが圧倒していたみたいだね」
二人は、今度は親を入れ替えて同様の作業を始めた。結局、いずれもクロ―ヴィスの勝利となる。
ルクスは銀貨を肘をかけていた木箱の上に乗せる。ピンギウは小さな歓声を上げて、一歩退いた。隣り合う二人の視線が合い、ルクスは向かいの席を指し示して顔を持ち上げる。
「さぁ、こっちも試してみようじゃないか?」
バニラは一瞬困惑したが、自分が手元に銀貨を渡されていた事に気付いてこれを木箱の上に置く。32枚組の真新しく綺麗な裏地のカルテを配り始めた。バニラは一枚ずつ手に取り確認する。不慣れな仕草で12枚を手で持ったが、分厚く広がって落としそうになった。
「手札は見せないようにね」
ルクスは目だけでバニラの所作を追う。ピンギウがバニラの背後に立ち、カルテを覗き込むように見て、指を差しながら「絵札はあるね」と答えた。
「僕は無しだ。ほい、十点」
そう言ってルクスは手札を一瞬見せてすぐに戻した。バニラは一瞬何をしたのか分からなかったが、直ぐにルール上見せなければ証明できない事を悟り、自分の手札に集中する事にした。
(つまるところ絵札が強いって事だから……数が少ないものを捨てればいいんだな……)
バニラは数の小さい手札を片っ端から交換する。ルクスは残部を可能な限り取り替えて引きなおした。
バニラはピンギウの指示に従って、一連の行動を取る。前半の事務的な計上については慣れたもので、直ぐに対応する事が出来た。
「さて。……じゃあ、僕からカードを出そう」
ルクスは木箱の上を滑らせる。バニラの手元には、それと同じスートのカードは存在しなかった。
「こういう時は弱い手札を出して捨てましょう」
ピンギウは定石に従って指図する。バニラはここで、自分のスートがかなり偏っている事を知った。
(……こちらが偏っているって事は、あっちも偏っているかもしれないな……)
「捨て札は見ても……?」
「どうぞ」
ルクスは自分の捨て札もバニラに寄せる。バニラは自分の捨て札とルクスの捨て札を確認し、「あぁ……」と小さく息を吐いた。
「どうやら何となくわかったみたいだね」
「……先の十点、それに加えて色の違うカルテにつき1点……。同数のスートで俺が得た5点、階段で5点。勝負は大体ついたみたいですね」
バニラはルクスの出す「低い数値のカード」に対して、事務的に合わないスートを出す。やっと得られた一点以降はほぼ常勝だったが、僅差で負ける事となった。
「まぁ、初心者にしては上出来じゃないかな?こう見えて僕は得意な方だからね」
(どう見ても得意そうです)
バニラはそう続けようか悩んだが、一応自分の首が惜しいので保険の為に黙っておくことにした。
「ただ、捨て札を見る限り、相手の手札は弱い札が固まっていて、マークが偏っていると分かった筈だから、10とか9は残しておいても良かったのかな」
「残しておけばこちらが先手で優位に立てましたね……」
「マリガン後はブラックボックスさ。仕方ないね」
バニラは捨て札を確認しながら言う。同じマークのカードが手元にあれば、カードを出す先手はバニラの方に移ったため、むしろ優位に立ち回れただろう。ルクスはカードを回収し、再びシャッフルした。仄暗い中に、神の擦れあう小気味好い音が響く。バニラは、これまで人生で感じた事のない独特な至福の感覚を覚えた。カルテの擦れる音は、薄い紙のノートとは違い、梨を齧った時のような音がする。この静寂の中では学問の欲求を忘れ、相手を打ち倒す狡猾さに集中する事が出来る。束の間の娯楽に思わぬ快感を覚えたバニラには、机に置いた銀貨が途端に惜しいように思われた。
ルクスはバニラに手札を配るよう促す。バニラはカードを慎重に受けとり、覚束ない様子で手札を配り始めた。
いよいよ次の勝負を始めようと手札を見た時、真空で隔てられた今一つの木箱を木箱をドンと叩く音が響いた。
「ペテン師が!」
見れば、既に二回戦に突入している男が、木箱に拳を叩きつけていた。クロ―ヴィスは相手の手札を見ないように上を向きながら、余裕の表情で応じた。
「ペテン師はお前だな。カードの裏の印刷が荒いのを態々使ってただろう」
「……なんだと?」
クロ―ヴィスは自分の手札の裏地を見せつけるようにして不敵に笑う。厚紙が彼の手元でひらひらと動くたびに、小さく空気が振動する。それは宛ら相手の唇の震えを操っているようでもあった。
「ありゃあ癖だな。お前がカードを見る時の目は、明らかに絵柄の違いを見定める時のそれだった。俺の顔よりもカードの裏地を気にしていたからな」
クロ―ヴィスは手札を動かすのをやめ、男を横目で睨み付ける。明らかに動揺を隠せないまま、男は視線に後ずさりした。
「おい、『ペテン師』、勝負師ってのはな、初めから勝てるゲームじゃつまらねぇんだよ。お前みたいな浅知恵じゃあまるで歯が立たねぇ。出直してきな」
「……俺の負けだ。銅貨四枚分なら結構な稼ぎだろ」
「俺がこれまでに失ってきた稼ぎに比べりゃあ程遠いね」
男は早足で階段を昇っていく。暫く盤面を見つめていたクロ―ヴィスは、視線に気づくと「あぶねー、今回の手配は負けそうだったわ」と言って笑った。
「今バニラにも教えたから、今度からみんなできるよ」
ルクスは手札を持ち上げてクロ―ヴィスを誘う。クロ―ヴィスは不揃いな歯を見せて笑った。
「お、いいねぇ。お手並み拝見……と」
彼は木箱の上を片付け始める。クロ―ヴィスが合流するまで、一同はそのまま待っていた。
薄暗い中に木箱の盤面を照らすオレンジの光が吊るされている。四人は夜明けまでの熱狂を存分に楽しみ、朝焼けと共に大きな欠伸を漏らした。
恩を忘れた裏切り者は みんなまとめて切り刻んでやる!
お前達を買ったのは、確かに俺の慈悲だった!
散々ずれた、そのかつら、見ればわかるが、俺しか知らぬ
それなのにお前、散々指摘され、取り換えられて帰ってきては
俺の心を踏み躙る!やめだやめだ、賭博はやめだ!
お前達には がっかりだ!




