ラ・ピュセー‐ブローナ
翌日、グロア邸の前に止められた馬車を見送る当主は、頭を下げる教授にからからと笑いながら応じた。酷い低姿勢は教授の弱った腰には堪えるだろうに、学生達一人一人に無理矢理頭を下げさせながら、上に立つ者としての役割を全うした。
馬車に乗り込む際に見せた鬼のような形相は、学生が一斉に視線を逸らすのに十分な剣幕であったが、彼は言いたいことを飲み込んで席に着き、額を手で拭いながら深い溜息を吐いた。
「先生……申し訳ありませんでした」
バニラが頭を下げるのと同時に、悲壮な表情が顔を上げる。
流石にこの時ばかりは、学生達も沈黙を守っていた。
「いや、バニラ君は悪くないよ。……なぁ」
「正直、僕が一番悪いです」
ピンギウはそう言って、荷物を強く握りしめた。書籍や財布の中でコインが擦れあう音が響く。モーリスは憔悴しきった表情で、ピンギウの膝の上に講演用の資料を乗せた。これは彼なりの懲罰であり、ピンギウもこの力ない老人の言葉を受け容れて講演の資料に目を通した。
馬車は純白の煉瓦に包まれた町から、星の城塞を抜け、カペル王国を南下していく。川沿いの交易路には船頭が待機し、樽を満載した船はすれ違うたびに異なるにおいを運んでいく。川沿いの平野には幾つかの集落があり、この集落を通り過ぎながら、馬車の旅団は森の中へと差し掛かる。
鬱蒼とした森には、陽の光すら当たらない。御者は火おこしの魔法で指先に小さな火を灯し、カンテラの蝋燭にこれを移す。硝子越しの仄かな明かりが群れを成し、細い道を通過していく。その仄暗さは学生一同の精神を酷く狼狽させ、モーリスの憂いもまた倍増させる。通夜のような陰気な雰囲気を乗せたまま、馬車はゆっくりと狭い道に轍を刻み込んでいく。
「……波風立てずに過ごしてくれたらよかったのにと思うのだが、
学生たるもの、いつもの悪癖を出さないはずもない。歌など知らぬが、一言だけ。小言と言われど構わない。頼むから大人しくしておくれ 君達の趣味には何も言わないから」
モーリスは口の中でもごもごと嘆願の歌を口ずさむ。学生達は一層沈痛な面持ちとなり、肩を狭める。
「はい……」
力のない呟きに、モーリスも短く礼を言う。森が深まるにつれて、彼らは徐々に床を凝視するような姿勢になっていく。彼らも、野獣の鳴き声や、野生動物の群れが近くを通り過ぎる事に歓声を上げる観光客の明るい声を、この時ばかりは呪いたくなったに違いなかった。
やがて木漏れ日が増え、徐々に深緑が青く瑞々しい光沢に代わる頃、学生達はやっと彼ららしい気分の高揚を取り戻した。森が浅くなっていくにつれ、樹上生活をする鳥の鳴き声などは遠くなり、代わりに野ウサギが進路を妨害したり、空から毛虫が垂れているのを見た女の悲鳴が遠くの馬車から聞こえたりし始める。馬車の群れもいよいよ明かりを消し、馬の嘶きに任せて、木々の隙間から差し込む光に向けて進んでいく。
時刻は間もなく夕刻を迎え、空が青から徐々に白と浅い茜色に染まり始めている。森を抜けた瞬間に、この赤い光が彼らの視線に強烈に差し込む。バニラは片目を瞑って眩さを紛らわすが、同時に言い様のない興奮を覚え、この強烈な光の柱が、大きく赤く発光する陽光に染められている様に思わず歓声を上げた。同時に見開かれた瞳が捉えたのは、夕陽の方角にある、川沿いの水を受け容れる古めかしい城壁であった。清流の流れに従い、下る貨物船が水城の関所へと向かって行く。その影は一層濃く長くなり、茜色を反射する川面の上をサラサラと流れていく。
深い森と、地平線の向こう側にある小さな丘のような背の低い山に守られるようにしながら、都市は川の水を飲み込んで行く。
水門が開けられる。幾らか身軽になった木造の船が都市の中へと入っていった。
「気を取り直して。ここが次の目的地、清流の古都ブローナだ」
都市に近づくにつれ、河川が非常に広大なものである事が確認できるようになる。バニラは川面に映る茜色の為に、自分の顔が真っ赤に染まっている事に気づかぬまま、近づいてくるこの古めかしい城塞をやや前のめりで観察した。
外観上、ブローナは決して見栄えのする都市には見えない。古い城壁は切り石の精度が悪く、また角がやや取れて丸みを帯びている。建物も外観上は城壁より大きくないものが殆どで、僅かに城の尖塔のようなものがいくつか見えるだけである。バニラが注目したのは、都市の景観を微かに見せる格子の水門である。馬車が近づくにつれ、目の細かい碁盤状のこの水門から、川とその両岸にある家の様子をうかがう事が出来るようになる。初めは川面が、次に東側の見馴れた建築様式の建物群が現れる。格子越しに僅かに覗くその光景が、彼を焦らす。馬車は遂に関所の前に辿り着き、再び閉ざされた格子の水門のすぐ横で、入場の手続きが始められた。