ラ・ピュセー11
バニラが目を覚ますと、そこには満天の星空を模した天井が広がっていた。殆ど反射的に、「この位置にこの星があるのはおかしい」と口走り、隣で何者かが身動ぎするのに気付く。
咄嗟に身を起こすと、頭上に掛けられていた濡れタオルがぼとりと布団の上に落ちる。尻を羊に包まれる様な心地よい感覚と、でっぷりとして項垂れる濡れタオルの重みに、彼はやっと、状況を飲み込む事が出来た。
「目が覚めたかね?」
「さ、先程は、誠に、失礼いたしました!あぁ、何とお詫びをして良いか!」
彼の目の前には困ったような笑みを浮かべるグロアがいる。外の景色が薄暗くなっているのを見ると、かなり長い間眠っていたようである。
酒で出来た染みの事や、仲間の非礼の事でバニラの頭の中は随分と混乱している。星を見るよりもまず先に、何らかの誠意を見せなければ殺されても仕方ないだろう。彼の全身は脂汗ですっかり濡れていた。
「気にすることは無い。面白がった此方にも問題はあるからね。そんな事より……」
グロアは天井を仰ぎ見る。非常に高価な青い絵の具で厚く塗り込まれた夜の闇の上に、盛り上がるようにして星のような黄色がぼたりと塗りつけられている。
「空が好きだと聞いたからこの部屋にしたが、お気に召さなかったかな?」
バニラはたじろいでしまう。グロアの声は穏やかで、まるで自分の非を詫びるように静かでもあった。彼は顎を使い、バニラに正直な言葉を要求している。しかし、バニラは改めて見上げた天井の装飾に対して、居心地の悪さしか感じなかった。
「絵画は魅力的ですが、その。現実的ではないと思います」
幾つかの星座が同じ場所に散りばめられている。同じ季節にある事はない星座や、盛り上がるように上から塗られた星が、現実とは相いれない「天上の仮説」に則っているように思われた。
しかし、神の意向と真っ向から反対するような事は言い得ない。バニラはそれ以上の返答が出来ず、視線を背けた。
「君は、天が私達と同じ理で動くと信じているか?それとも、彼らの世界があると信じているか?」
グロアはバニラに試すような鋭い視線を送っている。バニラの酒に酔ったようなぼんやりとした感覚で脳内が冴え渡り、宇宙上に浮かぶ星々の膨大な紙面の上での記録が連なる。その軌道はかつての天上の世界とは異なった結果を示している。
しかし、バニラは視線を逸らしたまま脂汗をかいている。暫く彼からの返答を待っていたグロアは、緊張を解いて軽い溜息を吐いた。
「君は優等生だ。多くの人がなせるような事までしか成せないだろう。モーリス教授の意図が少しばかり分かった気がするよ」
「えっと……それは……」
グロアは顎を摩りながら天井の絵画を見上げる。巨大な、無機質で輝きのない黄色い油色の数々は、群青の上にあっては神秘的な瞬きを放つ。しかし、それらは天の色の為にくすんでおり、実際に輝きを放つことはしない。
「私と夜の話をするのは嫌かもしれないが、君の見解を聞かせて欲しい。私は、とにかく色々な見解が知りたいのだ」
「……俺の見解です。俺の見解だから、今からいう事は天体の実際の駆動を示すものではありません」
グロアは口元を緩める。バニラの唇はやや緊張の為に震えていたが、その瞳が真っ直ぐに自身を見つめ直して来たため、彼は手頃な高さの花瓶台に肘を付けて姿勢を崩した。
「どこまでも慎重だね。君は出世は速そうだ」
バニラは眉間にしわを寄せ、少し顎を引く。グロアは顎を使って続きを催促した。
「俺の見解は、天体の軌道は必ずしも真円を描くものではなく、あくまで仮説として楕円形をする、と言うものです。ユウキタクマ博士の見解が近いです。そして、もし仮にこの軌道を観測上完全な形で立証できるならば……天体は我々と同じような法則で動いているはずだ、と言う事が出来るでしょう。俺は天才じゃないので、昔の人のように観測データ一つから結論は出せません。今は、それを集めているところです」
「それを集めてどうしようと?まさか、散々使い古された議論の結論を、凡庸な君が裁定するわけではあるまい」
「……俺は、月に行きたいです。その為に、今は月が何処にあるのかも、大砲でどこまで飛べるかも、検証しなければいけません」
「月に行くと出たか。これは大きく出たね!」
グロアは一層嬉しそうに口元を緩める。バニラはこわばった表情で頷いた。作られた天界は不完全な時空を歪めてより集められている。生真面目な青年の瞳には、それは全く不遜な世界のように思われ、丁度深まりゆる夜の色に同化して見えた。
彼は既に視界が翳っている事に焦りさえ覚え始めていた。そろそろ日課をこなさなければ、正確な観測記録を取る事が出来ない。
「……どうやら邪魔をしてしまったようだね。では私はクロ―ヴィス君の所に行って、色々と話を聞きに行こうと思うよ。最後に予言をしてみようか。君は月に行けないだろう」
すっかり力を抜かれた体がだらだらと立ち上がる。立派な衣装もこうなっては酷く陳腐なものに見える。
「だったら、俺の著作が月に行くところを見届けて下さいよ」
貴族特有のがっしりとした体形が月に向けて長い影を作る。影はそのまま月から離れ、扉の向こう側へと消えていった。
「その時には、私が死んでいるよ」
閉ざされた扉の向こう側で、グロアの惜しむような、しかし明るい声が聞こえた。