ペアリス3
夕刻のペアリスはさざめく川面と渡し橋の賑わいで多くの人を魅了する。ペアリス大学を出て南方へ十数分ほど狭い路地を進むと、両替商と傘貸しが屯して語らうセリヌの眼鏡橋がある。生活用水としても利用されるセリヌ川を跨ぐこの眼鏡橋には、常に人と、流れる川面と、ひしめく都市の狭間では珍しい美しい陽光を見ることが出来る。大旅行を控えた学生一同が集合したのはこのセリヌの眼鏡橋を渡った直ぐにある葡萄樹の看板の店で、バニラもその店の事をよく知っていた。
簡易飲屋「セリヌ眼鏡のワイン蔵」は、修道会が仕入れたワインを数多く取り揃えた店であり、一階に大衆席と、二階に大宴会場、小宴会場を幾つか持っている。とはいえ、学生たちにとって上階はさほど用事がないため、バニラがいつも見知った顔を見つけるのは決まって一階の大円卓であった。
カラン、呼び鈴の音と共に、景気の良い挨拶が響く。三人の顔を見た店員が軽く手を挙げると、彼らは小さな会釈で返し、壁沿いの四人席に着いた。
「さて……何呑む?」
クロと呼ばれた学生が開口一番に注文を集める。キラキラとした瞳は穢れを知らないというよりは、もっと欲深く何かを求めているような目だ。
「まぁ、僕はワインにするがね。君達は好きなものを選びたまえよ」
吟遊詩人風の男は髪を払いながら指先を何か楽器でも奏でるように動かす。クロはすかさず「エール!」と叫び、太った男ははにかみがちに「僕もエール」と続いた。
さて困った。バニラは酒には無頓着で、これまで頼むものと言えば水と決めていた。ある程度年齢のいったバニラがなにも飲まないというわけにもいかない。葡萄の木の看板を思い出し、咄嗟に浮かんだのは赤ワインだった。
「……エールで」
ワインは花の女神カペルも愛する飲み物だけに、高価なことが多い。品書きも置かれていないこの店で、迂闊に飲んでしまっては苦学生のバニラには少々身が重いと判断したのであった。
薄っすらと肉の焼けるにおいが充満し、誰もが期待感に小躍りする店内で、自信のなさげな彼の声はやや聞き取りづらくもあったが、クロと言う男は彼の注文にほとんど反射的に反応した。
「よし来た!おばさん!ちゅうもーん!」
「いいのかい?奢ってもいいのだがね?」
吟遊詩人風の男はバニラの耳元で囁く。質のいいテナーボイスは耳元でささやかれればゾッとするほど魅力的な物で、バニラも思わず肩を持ち上げて首を振った。すると、彼は空気を吸い込むときのようなごく小さな声で「そうかい」とだけ答えた。
店内は学生達の為に非常にかしましい。やや煙たく薄っすらと浮かんだ蒸気は肉焼き用の巨大な鍋に特有のもので、えもいわれぬ好い匂いを立ち昇らせながら、視界を霧のように曖昧に隠す。日常の歓談はいずれも猥雑さで満たされており、エールを待ち、同胞たちが恋に現を抜かす様をまざまざと見せつけられている間、バニラはその喧しさから逃れるために旅の支度について考えていた。
「なぁなぁ、お前。名前なんて言うんだ?」
クロと呼ばれた学生が詰め寄ってくる。バニラは一旦思考を停止し、目の前に雑務をこなす事にした。
「あぁ、バニラ・エクソスです」
「おいバニラ、俺の名前はラヴラ・クロ―ヴィスと言う。クロじゃないからな、覚えておくといい」
クロ―ヴィスはそう言って酒を仰ぐ仕草をする。待ちきれないのか、彼は既に頬が紅潮していた。悪戯好きな子供のような生意気な笑みで見上げられ、バニラは苦笑いしながら視線を他の二人に向けた。
「仲良きことは美しきかな。僕はルクス・フランソウス。クロ坊とは長い付き合いでね。まぁ、腐れ縁と言ったところか」
ルクスはクロ―ヴィスの頭を撫でまわしながら笑う。女ったらし特有の艶美なテナーボイスは、酒場の雰囲気とは不釣り合いに優雅な雰囲気がある。
「あ、てめ、撫でるな、撫でるな。気を付けろよ、こいつ滅茶苦茶性悪だからな」
「ははは……。よろしくお願いします」
クロ―ヴィスとルクスが視線を小太りの男に向ける。男は静かに机の上で手遊びをしていたが、暫くして顔を上げ、バニラの方を見てはにかんだ。
「ピンギウ・ソルテです。ピングーって呼んでください」
見たところ一番若い彼は、基礎教養学部の学生なのだとすぐに理解できる。言葉遣いや物腰は丁寧だが、少々頭の巡りが遅いように思われたからだ。バニラは口角を持ち上げ、「よろしく」とだけ短く言った。
「彼はモーリス教授の友人の子でね。こうみえて中々鋭い所がある」
ルクスは学士帽の入らない彼の頭を二回優しく叩く。ルクスを中心にしてみると、二人は彼の弟と言った風にも見えた。
「お前は法学部じゃないだろう。顔を見たことがないからな」
運ばれた酒を配りながら、クロ―ヴィスは言った。バニラは小さく頷き、目の前に置かれたエールを見下ろす。
「俺は魔法科学専攻中です。モーリス先生とは基礎教養学部の頃にお世話になりまして」
「ほう、魔法がお好きなのかね。では僕とは話が合いそうだね」
瓶で運ばれたワインを静かにグラスに注ぎながら、ルクスはにたりと笑った。バニラにはその笑みが何か謀をしているように思われて、思わず背筋が凍った。
「こいつ魔法学博士号持ってっから」
「セ、先生ですか?」
「いやぁ。刑法にも関心が出てきてしまってねぇー」
全員の酒の準備が整ったところで、各々が杯を持ち上げる。喧しい酒場の賑わいに既に少々酔いが回っているクロ―ヴィスは彼らの会話に割って入る。
「まずは乾杯からな。それ、俺達の旅立ちを祝してぇ?」
「乾杯!」
グラスのぶつかる小気味の良い音に、酒場の喧騒が一瞬背景に消える。背景だった彼ら四人は一気に酒を飲み出した。喉元を通り過ぎる小麦色の誘惑がバニラに強い苦みと快感を与える。彼は飲みなれたホップの余韻が次々と喉仏を下し、三分の一ほどを飲んだところで歓喜の息を吐いた。丁度その時に、薄味の炒り豆と青く黴臭いチーズが配膳された。
「おい、ブルーチーズはやめろと言っただろう」
クロ―ヴィスは怪訝そうにルクスを睨む。ワインを片手に一人貴族然とした余裕を見せる男は、小さなナイフを器用に回しながら、小柄なクロ―ヴィスを見下ろした。
「嫌ならば君は食べなければいい。元より君の金ではないのだからね」
「においが駄目なの、俺は。いいからそいつを机の端に寄せてくれ。鼻がひん曲がる」
ルクスはさっとチーズを机の端に寄せ、切ったチーズの一切れを齧る。「うえ」と声が漏れそうなほど顔を顰めたクロ―ヴィスには目を向けず、彼はバニラの方を見た。
「君は食べるかい?」
「いただきます」
ルクスは満足げに微笑み、ナイフで一切れを切ってバニラのトレンチャーに乗せる。バニラを礼を言うと、少しばかり刺激臭の強いチーズを持ち上げてみた。
薄くスライスされた台形のチーズには所々に青カビが繁殖している。確かにきつい臭いではあったが、バニラは特に気にするでもなくそれを頬張った。
「塩味が強くてうまいですね。酒の肴に良い」
「でしょう?ほらほら、クロ坊も食べればいいのに」
ルクスがクロ―ヴィスにちょっかいを出す。不快そうに眉を顰めたクロ―ヴィスが手であしらう。
「だからぁ……俺はにおいが駄目だって言ってんの!」
クロ―ヴィスは身を逸らしてエールを仰ぐ。確かに少し盛り上がった喉仏が上下に動くと、すっかり真っ赤になった手で炒り豆を鷲掴み、放り込んだ。ぼりぼりと硬そうな豆の音が実に愉快で、バニラも一粒頂く事にした。
「美味い」
「塩気だったらチーズよりこっちで摂ると良いぞ。あれはにおいがきついからな」
バニラは苦笑いで返す。隣から荒い鼻息が聞こえて横を見ると、ピンギウが食事には目もくれずに黙々とエールを仰いでいた。既に三杯は入れているらしい腹はもとより更に膨れ、喜びと言うよりは焦りさえ感じさせる素早さだった。何か悪い事でもあったのか、と心配になったバニラが声をかけようとすると、ピンギウは飲み干したジョッキを静かに机に置き、満足げに鼻を鳴らした。
「もう一杯」
「えぇ……」
バニラは珍しく、この物静かな青年が怖いと感じられた。