ラ・ピュセー10
グロアとの茶会はその後議論を取り替え、美食についての考察に変化していった。先程まで沈黙を守っていたピンギウは、今度は一転して饒舌となり、紅茶の温度差ほどの温度差で興味を失ったクロ―ヴィスは、タペストリーや肖像を指さしながら、バニラにその絵画の背景に付いて解説をしている。三十分ほどそうしているうちに、彼らの鼻をくすぐる好い匂いが漂ってきた。
「あぁ~麦の匂い~」
ピンギウは唐突に議論を留めて歌うように言った。グロアは大笑して匂いに釣られて席を立つピンギウを宥めている。バニラはその様子を苦笑して見つめていたが、彼の内心ではピンギウが本当に求めているものについて強い懸念を抱いていた。
ピンギウの突き出た腹は大食によるものではない。酒飲みが腹に泡を留める事によって生じる膨張である。つまり、ピンギウが期待しているのは、「ティータイムのメインディッシュ」ではなく、「気分を高揚させる飲み物」のほうにあるのだ。
案の定、グロアの従者はコルクで蓋をした、年代物のワインを携えてやって来た。
「ルクスが友人を連れてくると聞いていたのでね。町の酒蔵からいい酒を買い取ったのだよ」
グロアはそう言って優雅にコルク抜きを手に取る。従者が切り分けたブリオッシュを客人に振る舞うのと同じように、彼は自ら彼らの水準に降りる事によって、より良い議論を引き出そうとしているらしかった。
(いけないぞ、いけないぞ……)
バニラの警告が伝わるはずもない。グロアはコルクを引き抜き、コルク抜きを戻そうとする。すかさずピンギウは酒を手に取り、全員分のグラスに注ぎ始めた。
先程まで手元にあった酒瓶が見当たらない。目を丸くしたグロアを見向きもせず、ピンギウは紅の誘惑に恍惚としている。彼の手前に瓶がある事に気付いたグロアは、唖然としてピンギウのこの表情を見直した。
彼の瞳は一層輝きを増し、グラスに映る歪んだ瞳さえ輝いている。グロアの乾杯を待つことなく、彼は真っ先にグラスに口を付けた。
「おいこら飲兵衛!行儀悪いぞ!」
バニラが思わず指を差して非難する。グロアは乾いた笑い声をするばかりで、その目は未だに現実を捉えきれていないようだった。
「じゃ、僕もいただきまぁす」
ルクスは実に愉快そうに便乗する。彼は乾杯の意味を知らないわけではないが、それ以上に興味本位で動く人間であった。バニラは貧乏ゆすりをして指を差す対象を変える。悲鳴のような「あぁぁぁぁ……」と言う声は、行儀の悪い二名にも増して間抜けに見えた。クロ―ヴィスも使用人の持つ瓶と乾杯をして酒盛りを始める。一層甲高い声を上げたバニラの指先が動いた。流石に意図を察したグロアは青ざめながら顔を真っ赤にするバニラを見て笑いを堪えている。最早ブリオッシュどころではない、無礼講の恐怖に、喉の奥で無意味な音を鳴らすバニラを尻目に、一口付けた男達の品定めは冴え渡っている。
「まろやかな味だね。これは強い甘味にも合うだろう」
「いやぁ、ストレートこそ至高だよ」
「……うまい。もう一杯」
バニラは高額のワインを継ぎ足すピンギウを指さし、更なる悲鳴を上げる。胃にまで響きそうな腹の底からの悲鳴は、旅の高揚感も相まって学生達を更に楽しませる。グロアは堪えきれずに大笑し、耳打ちをする従者たちも実に楽しそうである。
さて、一頻り叫び疲れて疲労困憊のバニラは、終に無遠慮に酒に手を伸ばす男に堪えかねて、飛び上がって叫んだ。
「いい加減に、しなさい!」
彼は酒を取り上げ、手を滑らせて酒瓶を床に落とした。
無情な硝子の破砕音の後、彼は甲高い叫び声をあげて泡を吹いて卒倒した。
騒々しさは一気に沈黙に取って代わられた。散らばったガラス片の下には、淡い赤色の絨毯が、深い赤色に染まっている。暫く沈黙した後、グロアは完全に口角を下ろしきれないまま、ルクスに視線を移した。
「……反省しようか」
「……えぇ」
白目を剥いたバニラは、従者二人掛かりで寝室に運ばれていった。