ラ・ピュセー9
客室は広々としており、テーブルクロスを敷かれた円卓の上には、白いナプキンと青磁の皿が置かれている。落ち着いたシンプルな器であるが、淡い緑色が光沢を持ち、上品な美しさを演出している。先ずはグロアが席に着き、続けてルクス、グロアと向かい合う形でクロ―ヴィスが、そしてピンギウとバニラが遠慮しながら空席に着く。卓上の歓迎ムードとは裏腹に、グロアは試すような、脅すような、独特の表情でクロ―ヴィスを見下ろしている。一方で、クロ―ヴィスは肘をつき、不遜な態度のまま彼を見上げていた。
「狂犬の如く」と言う言葉が正しく相応しいだろう、白馬が草を食むのを遮るように、或いは、自身の器を守るように、クロ―ヴィスの手は乱暴に机に投げ込まれている。机の上に肘もつき、臨戦態勢で臨んでいる。
(い、いつもこんな感じなんですか……?)
バニラがルクスに小声で囁くと、ルクスは実に楽しそうに笑った。
(いやぁ、叔父様を本気にさせてしまった、と言う感じだねぇ。怖い怖い)
(笑い事じゃないですって、これ。雰囲気が本気ですよ)
グロアは落ち着き払った様子で注がれた紅茶を啜る。流石のピンギウも何も語らないが、臨戦態勢の二名は平気で物を口に運んでいる。
一頻り軽食を楽しんで後、グロアが口元を軽く拭って切り出した。
「さて……。今回の議題はジェインの真実性について、と言う事でよろしいかな」
「違うね、芸術の不真実性についてだ」
「なるほど、では、真実性を映す事が芸術に必要かどうか?ルクスはそのあたりどう思うかな?」
「あ、僕ですか。芸術に真実を織り込む事はあろうと、真実を映す事が芸術の本質でない事は明らかです。何故なら、僕のような実体のある美とは異なり、芸術とは実体のない美だからだ」
羽根つき帽の羽を弄りながら、ルクスは悠々と述べる。クロ―ヴィスはすかさず皿を一枚手に取り、こつ、こつ、と小突いて見せる。
「これが『実体がない』のか?芸術が史実の通りに、少なくともその時々知られる良識に従って作られるべきだという事は、まさに詐術を拒絶するあらゆる論理が証明しているんじゃあないのか?」
バニラは慌ててクロ―ヴィスから皿を取り上げる。陶磁の皿など割られたら責任が取れない。クロ―ヴィスは彼を睨んだが、バニラが皿を元の位置に戻すと舌打ちをして視線をグロアに戻した。
彼の視線の先にあるグロアは、丁寧に固めた口ひげを、親指と人差し指で整えている。バニラはいつでも逃げられるように椅子を少し引き、視線を二人の間で往復させている。
「ふむ。では、君は単純芸術と言うものをご存知かな?あるいは、かの古典的なタペストリーのいずこに写実的な表現があっただろうか?」
「へぇ。つまり、あんたは写実性の為に、伝達すべき真実について矮小化させる事が正しいというんだな?それに、自然の絵画こそ、写実性と言う真実味が求められるだろう。あんたのそれは精巧さと、歴史的真実性と言うものの意味を混同していないか?少なくとも、遠近法以前の芸術と言うのは、歴史的真実性に忠実だろう?」
「なるほど。では、その歴史的真実性の伝達手段として、芸術が相応しいと思うのかな?主観性を有する絵画と言う芸術が?」
グロアは会心の反論と確信して、口角を持ち上げる。整えた髭が形を留めたまま歪曲し、目を見開いて出来た額の皺は何重にも重なっている。その威圧感は、庶民の小さな心臓を握り潰すには十分であった。
「……書物もそうだね。叔父様の言う指摘は、常に筆を持つ者に付き纏う問題だ」
ルクスが補足する。ここで初めて、バニラは腰を据えて、飛び交う議論の意味を咀嚼する事が出来るようになった。グロアは決して相手を攻撃する意図で議論を展開しているわけではなく、芸術を通して、純粋な真実性に関する議論を展開しているという事に気付いたためである。
バニラは改めて、議論に対する私見を模索する。「芸術の不真実性」に対するクロ―ヴィスの批判は、芸術には脚色が在れど美しさが重視されるべきであるという、「審美」へ対する批判に直結するものである。一方で、グロアの反論は、「真実」の主観性にある。彼によれば、クロ―ヴィスの述べる通りの真実とは、彼自身によって規定された真実に過ぎず、この主観がある限り、実際の出来事を正確に書き留める事は困難である、というのだ。そのため、グロアは芸術の主観性まで含めて、不真実性が芸術に必要であるか、あるいは少なくとも不可分であると認識しているのである。
「バニラ君、君の見解を聞こうか」
グロアは平静を取り戻したらしいバニラに向けて、穏やかに訊ねる。その視線はクロ―ヴィスに向けた威圧的なものではなく、バニラが大学で良く見慣れた類の意見を要求する視線であった。
「俺は、正直、芸術について詳しくないのですが。ただ、一つ言えるのは、芸術と学問を無理に関連させずとも好いのではないか、と言う事です」
「その心は?」
「芸術は、いうなれば『美』を追求する研究分野です。学問として芸術を見るならば、そこには審美と、社会学的な視点と言う、二つの観点からの学問分野があると言えるでしょう。クロ―ヴィスさんの言うような分野を社会学的な立場として、グロア様の言うような分野を審美と言う分野とするというのは、間違っていないと思います。何故なら、法学には、刑事学、教会法学、民事学などがあり、これらは必ずしも視点として一致するものではないからです」
「しかしそれらは全く別の分野を取り扱うもので、芸術とは一つの作品を取り扱うものだ。そうだろう?」
グロアは身を乗り出す。心なしか声が上ずっており、先程よりもより、バニラに関心を示している風である。机に肘をつき前のめりになる様は、好物を見つけた子供のように無邪気に見える。
「仰る通り、全く別の視点で語られているんですよ」
「つまり、俺とグロアさんでは、学問として分野が異なる、ていう事だな?」
バニラは頷いた。暫く一同は各々の自然な癖を見せながら、この意見について考えていたが、クロ―ヴィスは腕を組み、納得したように何度も頷いて見せた。
「じゃあ、俺は、芸術分野には触れていないって事か」
「いや、そうじゃないだろう。芸術審美をするときに、クロ坊はその作品から当時の社会情勢や文化を『読み解く』事に重点を置き、これを評価する。一方で、叔父様は、芸術における主観的な美について、独自の哲学で以て作品の価値を推し量るのさ。つまり、どちらも作品を評価する土壌に立っているが、全く異なる単位の定規で測っているという事だ。そうだろう?」
「まさに、その通りです」
バニラは堂々と言い切った。
しっかりと自分と視線を合わせてくるこの学生に対して、グロアは拍手を送る。突然の事で一瞬表情をこわばらせたバニラだったが、自身よりも圧倒的に上位にあるグロアの瞳が純粋に輝くのを見て、今度は無防備なほど肩の力を抜いた。
「お見事。確かに我々の議論は平行線をたどっていた。読み物として年代記を楽しむものもあれば、歴史の検証のために年代記を読むものもあるというのは、筋が通っているようだ」
「しかしそうすると、白黒つかねぇなぁ!」
クロ―ヴィスは頭を抱えて深い溜息を吐く。緊張感が解けたためか、一同はゆっくりと冷めた紅茶を口に運んだ。一方で、ピンギウの啜る紅茶は湯気が立っていた。
「グレーもまた真理って事では?」
「おう、ちっとも議論に参加せずにうまくまとめやがったな?」
「ははは、いいじゃないか。沈黙は金と言うのもあるだろう。ほら、君達、少し小腹が空いた頃ではないかな?ブリオッシュを焼かせよう」
「一等甘いのでお願いします!」
ピンギウは机に腹をつかえさせたままで身を乗り出す。乱暴に揺れた机の上で、青磁がガチャリと音を立てて揺れる。再び青ざめたバニラを見て、グロアは大層愉快そうに手を叩いた。彼の合図に従って、従者が歩み寄る。議論好きの当主は、客人の言うとおりに従者に指示を出した。