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ラ・ピュセー6

 雑魚寝の宿屋で出た料理は、昼食の刺激的な塩辛さと比べるとややつまらないものであったと、バニラは日課の天体観測をしながら回想した。


 幸いな晴天の為に、ラ・ピュセーの空には満天の星々が瞬いている。中でも強く輝くのが姿を移ろわす月であり、目を細め、四分儀で確かめた角度や位置を探るのは随分とスムーズに進む。

 一度の観測で世界の真理を読み解いた天才に比べれば、この未熟な学生の天体観測は異様と言うほかなかった。執念とも言える大量の観測記録には、ペアリスの城を中心とした自分の地点、自分とペアリスの位置から計算した天体の地点の予測などがいくつもメモされており、古い時代の観測記録と比べて明らかに異質の様相を呈していた。


 仲間たちが寝静まった束の間の静寂を存分に用いて、バニラは夜闇に目を凝らす。手製のコンパスを足元に置き、胡坐をかいた足を掻き、書蝋板を計算盤代わりに利用して、観測結果を書き留めていく。


(ペアリスよりも澄んだ空だ……)


 ペアリスには夜も様々な音が溢れている。人工の明かりで照らされた幾つかの家屋から音が漏れ、星空も少し星の数が少なく見えた。ラ・ピュセーの夜は青白く発光し、群青の空から降り注ぐ小さな光の群れが、あらゆる光を損なわれた地上に神秘的な灯となって降り注ぐ。

 芳しい古典の白煉瓦が一心に光を受け、自ら発光するように淡い光を放って見える。空から降り注ぐ光の礫が町中を照らす様は、その静寂も手伝って、有象無象の出すあらゆる炎の揺らめきよりも美しく思えた。


 バニラは、ここでの観測結果をもとに、ペアリス城での月の角度、星の位置を計測する。大旅行によって新たに増えた計算のせいで、自室にこもるよりも溜まった疲労が瞼を下ろすのに耐えなければならなくなった。彼は多くの場面で未知との遭遇を楽しむ事が出来たが、この耐え難い試練に関しては、やはり旅行への参加は失敗だったのだと思うようになっていた。


 とは言え、次の旅路に備えるまでの時間を思うと、肩こりに頭を悩ます事は少なくなってもいた。重くなった瞼がかすむ事も少なくなり、閑居を読書に埋める事も少なくなってきたことも自覚している。彼自身がこの変化について思考を向ける時は、決まって夜の観測が一段落した直後の静寂な時間であり、月に目を凝らしてもなお、選択の成否を判断するには至らない。瞬く星々がペアリスの時より強くなるたびに、彼の内にあるこの問題は大きく膨らんでいた。


「真面目ですね」


 書蝋板を持ったままぼんやりと月を眺めていた彼は、ふくよかな男が簡素な布の隙間から顔を出している事に気付く。


「俺の日課だよ」


「お隣、失礼します」


 ピンギウが毛布から這い出して、バニラと同様に胡坐をかく。丸く図体が大きいが、年下の彼の瞳は月光を映し、普段より輝いて見えた。


「魔法科学専攻でしたっけ。月には行けそうですか?」


 その他に小さな寝息が二つある。バニラは麻袋の中にある本を握った。


「俺の生きているうちは難しいかな」


「じゃあ、あまり意味がないじゃありませんか。それこそジェインの話じゃないですが、目的が達成できなければ、自分にとって益が無い」


 ピンギウはつまらなさそうに空を見上げる。星月夜を城壁のジグザグな影が阻む。地平線の向こうにある山麓が、天を貫こうと背を伸ばしている。


 それでも彼らは、月を掴む事が出来ないでいる。ピンギウが小さな吐息を漏らす。手製の磁針に張った水が波紋を広げた。


「君も言ったように、俺にとっての信仰と言うのは、信仰する事に意味があるんだ。それは、月を目指している間にだけ見られるものだ。俺には、それが必要だ」


 ピンギウは静かにバニラを見る。小さい寝息がいびきを鳴らす。更けきった夜の隙間を縫うように、蝋燭がか細い光を放つ。立ち昇る微かな煙も、天へ向かう間に霧消していった。


「信仰は儚いですが、僕は貴方の意志が好きですね。立身出世の為に大学に出向いた僕とは違う」


「将来は市の参事会員か?家督を継ぐ?」


 バニラはピンギウに向きなおる。書蝋板を床に置き、古い四分儀が隅に寄せられた。

 暫く黙って彼を見つめていたピンギウは、呆れたように鼻を鳴らす。月が少しばかり動いたか否かと言う長い沈黙の後で、彼は落ち着いた声で答えた。


「分かりません。親父の言う通りにしますよ。その方が安泰でしょうし」


「そうか。大変だな」


 バニラは間をおいて答えた。ピンギウは吐き捨てるように「寝ます」と続け、布団の中に素早く戻る。バニラは「少し暖かくなった空気」に身震いし、片づけを始める。蝋燭の灯を消して隅に寄せ、彼の布団の中に潜り込んだ。


「僕は、ロマンチストにはなれませんので」


 バニラの寝床から二つ隣の大きく膨らんだ布団の中から、独り言ちる声がした。


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