ラ・ピュセー5
教会を後にした一同は、市の中心から真っ直ぐに伸びる、ソルテやペアリスのものよりは小規模な市場を歩いていた。
厳かな教会とは打って変わって、降り注ぐ陽光は髪を焼くような強い光を放っている。首にひもを結ばれた鶏が、露店の軒先で喧しく声を上げる。羽毛を無為に撒き散らすためだけに羽をばたつかせては、括り付けられた紐に首を引き戻されて苦しそうに声を上げる。それにも増して、籠を提げた若い女が露店に一言声をかけることが、何より鶏達を騒がせた。
甲高い鳥の悲鳴が市場を包み込む。首筋から流れる鮮血が、旅先の光景としては余りにも庶民的過ぎた。
「中は普通の都市、といった感じですね」
「ラ・ピュセーは貴族中心の町じゃねぇから、見せないところは地味だと聞くな」
バニラは空返事を返した。貴族中心の町ではない、と言われて、簡単に納得ができ者などありはしない。道端を通るたびに家畜と出くわすのは彼にとってもペアリスで見馴れた光景だったが、どうやら首都の活況と比べれば随分と大人しいらしい、としか思えない。彼は再び周囲を見回す。土産物は星型の城塞にちなんだものが多いが、生活必需品は何らの代り映えもしない。
「とはいえ、独特な外観は見ていて面白いだろう」
モーリスは遠景にある市壁の補強も兼ねた集合住宅を指し示す。外周はそれほど稼ぎの良くないものの住む家だが、その最たるものが城壁と言うのは確かに珍しく、小さな窓が狭間のように市内へ開かれている光景は、丁度大旅行の馬車が教会の前に集っていた時のような存在感がある。居心地の悪さを感じるほどではないが、時折視線が纏わりつくような感覚に襲われるのは事実である。また、市場も例に漏れず、白い壁に囲まれている為、春先の暖かな空気がより濃縮されたような特有の開放感もある。
暫く歩くと、市街地の所々に乞食の姿が目立ち始める。市場を堂々と歩く乞食と言うのもある意味では珍しい光景だが、何よりも、彼らは平然とパン焼き窯でパンを卸し、その一部を齧りながら通り過ぎていく。バニラが驚愕したのは言うまでもない。ルクスは彼の反応を面白そうに見下ろしながら、乞食にチップを投げた。
「ペアリスの貧民街よりは、ずっと洗練されているからね。人気の教会の前で座り込み、同情を買って集めた金は、君の給金よりいいかもしれないよ」
「知りたくなかった……」
バニラは肩を落とす。彼は彼なりに大学で講師の為に講義の準備や説明会の準備をしたり、都心で説教をして回ったり、古本貸しの仲介を行うなどして小銭を稼いでいただけに、乞食達の裕福さに強い敗北感を抱かずにはいられなかったのである。
「よかったじゃねぇか。変な人気の観光地よりも貴重な経験だぜ」
「所謂強かな乞食、だねぇ。外観を偽って同情を買い、金を集めているのさ。こう言う所ではよく見かけるね」
ルクスは指を弾きながら言う。すっかり萎びてしまったバニラの肩にクロ―ヴィスの手が回され、慰めるように二、三度肩を叩かれる。抱えきれないパンを積んで路地裏に消えていく背中を見送りながら、バニラは釈然としない気持ちで閑静な市場を進んだ。
「おっと、ストップ。ここでラ・ピュセーの名物をご賞味あれ」
ルクスが長い手を伸ばして一同を止める。バニラは我に返り、鼻を掠めるニンニクのにおいに思わず顔を顰めた。もっとも、彼の表情は本能的に高額なものを嗅ぎ分けただけであって、特別に不快なにおいという訳ではない。
彼には目もくれず、ルクスは人数分の料理を注文する。気前の良い羽帽子の男に、店主は大きな声で応じた。
数分後、五人の前には魚のスープらしい料理が差し出される。それを手に取ると、ニンニクの強烈なにおいが迫ってきた。スープの中に浮かんでいるのは塩漬けにされた干し魚であり、長旅では食べる事の出来ない希少な食材であった。
「おぉ、いい匂いじゃねぇか」
クロ―ヴィスはさらに口を付けて一気にスープを流し込む。独特のとろみを持つスープが、ゆっくりと口の中に流れていった。スープを飲み込んで一度咳き込んだ後で、彼はメインの食材らしい干し魚を解し始めた。
「バカラオのスープは、何故かラ・ピュセーに古くから伝わる料理でね。恐らくは同盟結成期に港湾都市から齎された携帯食料の干し魚を使ったものだと言われているけれど」
バニラは皿を少し傾けてスープを確認する。片栗粉をで作ったようなとろみの為、スープは皿の中で比較的ゆっくりと揺蕩っている。
「……いただきます」
彼が口を付けて飲み込むと、塩漬けの干し魚から染み出した濃厚な塩気が初めに舌の上で踊る。刻まれたニンニクの風味が口の中に続けて流れて行き、オリーブ油最後にはオリーブ油のにおいも感じられた。それは以前に貰ったべっこう色の菓子よりも、バニラの口に良く馴染んだ。
(なるほど……塩気が少し強いけど、これはこれでありだな)
「失礼だが、スプーンを貸していただけるかね」
モーリスが皿を手に取りながら尋ねる。店主は黄ばんだ歯を見せて笑った。
「えぇ、どうぞ」
モーリスは短い礼をして、木製のスプーンを受け取る。彼はこれを使ってスープに塗れた干し魚にさらに上からスープを掛け、これを崩して口に運ぶ。ごく少量ではあったが、彼は咀嚼するたびに辛そうな表情を浮かべた。
「先生の口には合いませんでしたか」
ルクスが躍るような手つきで魚を口へ運ぶ。手を多少汚しながらも、どこか優雅に見える所作の一つ一つが、彼の身分の高さをよく示していた。モーリスを苦笑して返す。
「老体にはややきついよ……。若者向けの味だ」
「高齢の方が味付けは濃くなるとも聞きますがね。もう一杯くれ」
クロ―ヴィスは皿を店主に差し出してお代わりを請う。ピンギウはしきりに「あぁ、酒が欲しい……」と呟きながら、流し込むように食事を楽しんでいる。モーリスは首を横に振り、「脂が重いのはどうにもならないよ」と返した。
白い家々が中天にある太陽の光を受けてきらきらと輝く。学生達は教会の鐘と共に集まり始めた客に道を譲りながら、木皿を大事に抱えて魚を口に運ぶ。ごく一般的な服装をした、汗を流した労働者たちが塩気を一気に口にかきこんで満足げにげっぷをする。賑わいだした露店には、豪快な笑い声と、むせ返るような汗臭さが充満していた。