ペアリス2
ペアリス大学は広々とした講義室を幾つか持っている。学生は各々自らの師事する講師の講義に赴き、時折居眠りなどをして暇を過ごす。高い天井のエントランスホールにはステンドグラスにも劣らない丸窓から光が差し込み、蝋燭の炎と魔術士の炎とで交互に壁を照らす。照度のばらつきの為に斑模様に見える学生の表情はいずれも明るく、バニラの生真面目そうな表情はより講師のそれに近い。歪みのない無表情はまだら模様に当てられてもなお揺るぎなく、時折上位者に道を譲りつつ、彼はかつての恩師の部屋へと向かっていた。
彼は南北に伸びる広々とした廊下を進み、両端から五番目の部屋の前で立ち止まった。
モーリス・ジュミス法学教授の名と共に、天秤と学帽の紋章が描かれた看板を前にして、バニラは静かに高鳴る鼓動を整えた。
‐‐大事な話がある。講義の前に私のもとに来るように‐‐
彼が基礎教養学部の頃、神聖文字の講義で恩を受けたモーリス教授とは、子弟ではないものの、学会の準備や講義の手伝いなどで長い付き合いがあった。そのため、この部屋に呼び出しを受けた事例は少なくない。
しかし、彼が、これから何か重要な出来事が起こるらしいと感じたのは、このメッセージが、すっかり慣れ親しんだ旧友である神聖文字で記されていたからである。それは、「大事な話」である以上に、「公式な問い合わせ」であることを意味していた。
通り過ぎる幾つかの影が、バニラの背中にある斑模様を隠しては再び呼び戻す。そうして数人が彼の後ろを通りがかった後、彼の背後の斑模様は長く姿を消した。
「おいおい、入らないのか?」
バニラの肩の高さに若い声が響く。思わずびくつき、彼は振り返った。
彼は蝋燭の明かりに思わず顔を顰める。目を細めて少し下に視線をずらすと、頭の後ろで腕を組んだ子供らしい学生が眉根にしわを寄せてバニラを睨んでいた。
「あぁ、すまない。直ぐに用事を済ませよう」
バニラは咄嗟にそう答える。暫く揺れる蝋燭の明かりに目を細めていた彼は、その学生がさらに怪訝そうに表情を歪めるので思わず道を譲った。
「いいか、がきんちょ、二度とそんなふざけた口をきくなよ?その学帽引き剥がしてやるからな?」
「はぁ?」
自分の頭一つ分背の低い男にそう凄まれたバニラは、何かを言い返そうと男の胸ぐらをつかもうとした。生意気そうな男は彼の手をひょいと払いのけ、間抜けなバニラの顔を鼻で嗤った。
「おいおい。お前基礎教養学士だろう。こちとら科学修士号持っているんだが?」
「えっ、年上?」
目を丸くしたバニラを、男は鼻で嗤う。厭味ったらしく口の端を持ち上げながら、彼の手を強引にドアノブへと引っ張った。
「分かればいい。学帽引き剥がすのはやめといてやるから、さっさと用事を済ませてくれ。こちとら旅程の相談が待ってるんだ」
バニラは成す術がなく、ヒンヤリしたドアノブに手をかける。その前に慌てて扉をノックすると、室内から「どうぞ」という、疲れた男の声が届いた。
「失礼いたします」
彼は斑模様の廊下から、静かに扉の向こう側に向かう。古い書籍の臭いとこびりついたインクのにおいに安堵感を抱くと同時に、彼は目を丸くして客人用の椅子を見た。
そこには、既に二人の学生が座っていたのである。教授の為に用意された長椅子の上には左から順番に太った眼の細い男、気障な吟遊詩人のような奇抜な身なりの男があり、残り二人分の席を既に用意してあった。背後で扉が軋む音と共に、くつくつと笑う声が呆然とした彼の肩を振動させた。
「すまないね、バニラ君。まぁ、何処でもよいから座りたまえよ」
「は、はい。失礼いたします」
バニラは促されるままに席に着く。気障な男の右目と、先程の年若く見える男の左の目がバニラの方を見ている。やがて全員が席に着くと、書籍の代わりに巨大な世界地図を広げた机に向けて、モーリス教授が咳払いをした。
「……えぇ、それでは、まずはバニラ君に聞かなくてはならないね。君は、グランド・ツアーと言うものに興味はあるかね?」
「グランド・ツアー……最近話題の聖地巡礼の旅ですか?」
「あぁ、君はそう言う風に見ていたのだね」
モーリス教授はバニラに困ったような笑みを向けた。それはどことなく、安堵感に満ちており、陽光の代わりに周囲を照らす蓋つきの吊るし燭台が深く刻まれた教授の皺に陽気な色を灯す。モーリス教授は静かに地図を見下ろすと、指で道をなぞる。
「実はね、友人の伝手で旅の権利を手に入れたので、君にもついてきてもらおうかと思ってね。ただ、キッヘを通るか否かで少し揉めていてね。私は通らずに行ってもいいと思っているが、そちらの二人が通りたいそうなのでどうかな、と」
そう言い、モーリスは太った男と背の低い男を交互に見る。吟遊詩人風の男は指で空をなぞるようにしながら、鼻歌交じりにバニラの方を見た。
答えを期待する視線が一斉に向けられ、バニラは本棚が突然倒れてきそうなほどの動揺を覚えた。
自分がグランド・ツアーに誘われ、かつその旅程の決定権を与えられている、と言う事実。彼は突然のプレッシャーに普段からあまり豊かではない右脳と、未だ鍛錬が未熟な左脳に大きな負担をかけられた。
「えぇと、つまり、俺が旅程の決定権を持っているという事でよろしいですか?」
「それどころか参加者候補なんだよ。さっさと決めたまえ、少年」
吟遊詩人風の男はキッヘなる島を通らない道程を期待しているらしい。諳んじられた道程をいたずらになぞる二本の指が、時折交わりながらバニラに近づいていく。
「え、俺、参加していいんですか!?だって先生の所の門下ではありませんよ」
冷静になり始めた左脳が舌を回した。宙に浮いた灯が勢いに少し揺れる。教授は静かに疲れた首を縦に振った。
「行きたくないのかね?生涯に何度も経験できることではないのだよ?」
「いえ、行かせてください!行かせていただくとして……」
彼はキッヘについて思いを巡らす。彼にとってこの島を訪れる事は、必ずしも悪い事ではなかった。しかし、確かに彼らの関心事項からは本来ずれているように思える。この辺鄙な島は、法学博士が行って関心をそそられるような島ではないように思われるからだ。
しかし、次の瞬間には、彼は少しだけ右脳が重くなるのを感じた。道程を諳んじる事など必要なく、キッヘには美しい自然が間近に感じられるという魅力的な要素があった。そして、それを補填するように、左脳が彼に指示を出した。彼の興味関心を見上げる時に、キッヘはこの町よりも幾らか条件がいいのではないか、と言うものだ。
「行きましょう。キッヘ」
「そうか。では、決まりだね」
「有難うございます!」
よく響く声は、バニラの高揚を表していた。小柄な男がバニラの背中をやや強く叩く。いかにも古くからの親友に向けるように親し気にである。
「では、来週の最後の講義の後に出発するので、それまでに支度を整えるように」
教授は重くなった膝を持ち上げて腰を上げ、少し背中を叩いて笑った。
太った男が嬉しそうに両手を持ち上げて万歳する。吟遊詩人風の男が呆れたように笑い、首を振りながらバニラを見上げた。
「……では、君との親睦を深めなければね。おいクロ坊、例の酒場に行くぞ」
「今日は機嫌がいいから、お前の親し気な態度も大目に見てやろう」
クロと呼ばれた背の低い男は、なで肩を持ち上げて凄んで見せた。バニラを強引に担ぎ上げるようにして、彼らは教授の部屋から素早く撤収していった。
「まぁ、若いのは羨ましい事だ」
モーリスはそう言って、腰をいたわりながら、ゆっくりと執務台に戻った。