ソルテ‐ラ・ピュセー
人間の体は、20歳を境に徐々に老化を始めると言うが、30を過ぎた人間であれば、見た目が若かろうと決してその現実から逃れられないだろう。たとえそれは貴族であっても同じことであり、つまり重い荷物を背負わされた両腕を持ち上げるのに大層苦労するに違いない。
「あ゛あ゛あ゛……!肩が上がらなぁぁぁい」
両腕をだらんと垂らして馬車に揺られるルクスは、しきりに悲鳴を上げては馬車が石を踏む振動に呻き声を上げる。
「大丈夫かね、無茶をするからだよ」
モーリスはルクスに肩を貸し、彼の腕が楽になるように支える。ルクスは謝辞もそこそこに、「そうだ、そうだ。年寄りに無理させるな」と文句を垂れる。
「いや、貴方が乗って来たんでしょう」
ピンギウが呆れたように言い放つ。学生達が彼に同意するのも当然の事であった。
車内では筋肉痛に効くとされる軟膏の独特なにおいが充満する。薬屋でもあるまい、満たされた空気は馬車の中では濃く、酷く甘ったるい臭いに酔いを催すものだって現れないとも限らない。文句を垂れながらも両の手を頑なに持ち上げようとしないルクスは、戦況が不利と判断すると、再び呻き声を上げて体重をモーリスに預けた。細いがまだ若く筋肉も少なくない体を一心に受け止めて、老齢の教授はいつになく疲弊に満ちた溜息を吐く。バニラは旅の無理もあろうこの教授の事を気遣い、ルクスの手を強引に引っ張り、自分の肩に回した。
「いだだだだ……!何!」
「何じゃねーだろ、そいつが先生に気を遣ってんの!」
クローヴィスは鬱陶しそうに言う。肩を押さえるモーリスと目を合わせたルクスは、恥じらいを誤魔化すように笑った。
車内は騒々しく、また言い争いに満ちているが、アビスの町が空豆大の大きさになる程離れ、近郊部の広大な畑や、鬱蒼と生い茂る共有地の森が風にざわめく様は風流である。薔薇窓の見下ろす都心の喧騒から離れたバニラは、向かいに座る太った男が、のんびりと窓の向こうを眺める様を見て、初めてその景色に気付いた。
人間が暮らすには些か過酷の多いこの草原の只中や、或いは遠景に、繁栄する人の喧騒がある事は、終始研究室と図書館を利用してきたバニラにとっては貴重なもののように思われた。
川沿いの道には水車が、丘陵の道には風車が認められる道中で、その景観は再び人の繁栄を思わせるものとなる。しかしそれらは地平線に消えた市壁よりもよく草原の中に馴染み、遥か遠く川を渡る貨物用の小舟さえ、ごく自然の中にある生き物のように違和感なく川を上っていく。
そうかと思えば、馬車の直下にある草原から、野ウサギが顔を覗かせる。鼻をひくつかせながら、黒くつぶらな瞳と鼻をつけて、仲間に挨拶をする。敏感な耳がピンと立ち、馬車から逃れて茂みに消えていく様を見送ったバニラは、普段よりいくらか健康的な笑顔で、独り言ちるように歌い出した。
風の唸り、空は高く
風車は軋み、回る
青々とした草道の端には、ヤトが二羽、仲睦まじく
通り過ぎる淡い香り、あぁ、恵みあれカペラの冠
向かいのピンギウがこちらを見ている。耳元ではクロ―ヴィスが「あれ」を提案したことに対する疑義を提示したルクスが責任を追及する。モーリスは益々呆れたという風に、馬車の壁に身を任せ、小さく縮こまって彼らの口論にあれこれと口を挟む。バニラは、空間に隔たりのない車内にも関わらず、時が止まったような静寂に満足げだ。
「いい歌ですね」
ピンギウが小さな声で言う。
「ありがとう」
バニラははにかみがちに返した。向かい合う二人が外を眺める。流れゆく草の波間に、野ウサギや、目に染みるような快晴の空が広がっている。
いつかに酷く傷つけられた相手だったように思ったバニラだったが、この一時でそれは古い記憶のように思えた。
彼は旅路に大地の恵みを齎す花の女神カペラへの、大いなる祈りを込めながら、ただ流れゆく時間と言う贅沢を噛みしめる。騒々しさとは無縁の、肩のこらない贅沢である。カペルにいた頃の彼であれば、それは無駄として削ぎ落としていたものだろう。
馬車は喧騒と静寂を乗せて、次なる目的地、ラ・ピュセーへと向かって行く。