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ソルテ3

 大聖堂の礼拝堂の高い天井、薔薇窓から差し込む光は正しく祭壇に向けられており、太陽が真南に来るその時間に合わせて、宗教的感動を想起させるのに役立った。大巡礼ツアーの神秘的感動は、信仰を我が物としたカペル王国の対立教皇擁立の思惑とも合致している。グランド・ツアー開設の要因の一つに、このような他意があったのは疑いないように思われたが、それがこの宗教的体験に水を差すような事は決してないであろう。美しき薔薇窓の光を受けて、聖骨箱に納入された聖遺物は一層神秘性を纏っていた。


 参拝料を改めて支払った一同は、聖遺物の前に跪き祈りを捧げ、それが済むと、モーリスは巡礼者が途切れている事を確認したうえで、この聖遺物について簡単な解説を始める。


「オリエタスの聖衣(カミシア)は、守護者の大要塞建立を記念して、刺繍の神アリアーネが編んだとされる神秘の布だ。古代にこれ程精巧な機織り技術があったとは考えられていないが、それ故に神の御業と言わざるを得ないだろう」


 聖遺物を見守る司祭は静かに頷き、一筋縄ではいかないこの集団からの質問攻めに備えて聖典を紐解いた。それは神聖文字で描かれた、俗語聖典以前からの由緒ある代物であり、文字は細かいが表紙は重厚な代物であった。


「カミシアは大聖堂建設時代のカペル王国が如何に神の信仰に注力していたかを物語る、非常に意義深いものです。オリエタスは東方の守護神、つまり王国の主宰神であるカペラのものではないのです。それをこの地まで運んで来られた、カペル王国の王達の篤信には、我々さえ感服いたします」


 バニラは相槌を打った。実際に、王の聖遺物への執心は目を見張るものがあった。対立教皇の時代を作ったカペル王国にとって、聖遺物は正統教皇を主張するためにも重要なものであった。数と信用が物を言う「信仰」の世界において、これらの遺物は「政治的にも」非常に重要なものであった。


「カミシアは比較的古い時代からカペル王国にあったものだが、これからめぐる教会の中には比較的新しいものもある」


 モーリスの言葉の意味を理解しない学生はいなかった。この国には、神聖なこの場にそぐわない、非常に合理的な思考によって、聖遺物が集められているからである。


 信心深い司祭は首を傾げてとぼけて見せる。その際に一瞬だけ聖遺物に視線を動かしたが、見馴れた信仰の跡は彼の瞳に輝きを与えてはいなかった。

 カペル王国は目を付けたものを出来る限り手を血で汚さずに手に入れようとしてきた。それは、この国が特別に強い、弱いという問題ではなく、その力を支えているものが恵みある大地であって踏み均される事を善しとしなかったからだ。


 高い天井に堂々と鎮座する薔薇窓から、祭壇の手前に向けて光が降り注ぐ。相対的に暗転した祭壇の聖オリエタスは、やや首を持ち上げて薔薇窓の方を見上げ、手に持つ弓を下ろす。まさに月光に魅入っているように。


「カミシアについて、一つ質問してもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


 バニラに対して、改めて聖典を強く握った司祭が答えた。司祭自身、最も真面目そうなこの学生による質問であったことに安堵しただろう。仮に、背の低い学生だったらどんな詰問を受けるか分からないからだ。


「オリエタスは信仰の守護者でもありますが、こちらの宗教画……にあるとおり、基本的には鎧を身に纏っているイメージがあります。この布は、どのあたりの布という事になるのでしょうか」


「一説には、正装の、ちょうど、袖口の部分と言われています。ほら、この布は軽く輪を作っているでしょう?少なくとも鎧ではないというのが通説です」


 バニラは指摘されたように神秘の布を覗き込む。カミシアはなるほど確かに輪を描いており、引き締まった袖口のようにも見えた。袖口であるからか、やや汚れの目立つ部分も見られる。残った染みが血痕ではないらしいという事実が、彼を何となく安堵させる。


「オイちょっと待て、それはおかしいぞ。オリエタスは長身だし、筋肉質な神だ。美男子だったという伝承も、古代の人々の美的感覚を示す証拠になっているしな。まぁ、事実は置いておくとしても、だとしたら、こんなに袖が細いか?それは違和感があるんだが」


 小柄な学生が身を乗り出してきたので、司祭は思わず顔を顰める。このタイプの遍歴学生は、とにかく議論好きで、議論の種になりそうならばすぐに食い掛ってくる。しかもまず否定から入ると分かっているので、彼はこの学生がすこぶる嫌いだった。


「オリエタス神の容姿に関するご質問ですが、長身細身筋肉質と言われておりますので、これくらいの細さならば考えられるかと思います」


「ふぅむ……僕はオリエタス関連の聖遺物をエストーラで少し見物したことがあるのですがね、弓の欠片だったと思いますが、確かに非常に巨大でした。この袖が通るのか、という疑問は的を射ているように思われます」


 教授は黙って唇を噛み、目を逸らした。こうなった遍歴学生は止められない、と言う気持ちが如実に表れている。一方、普段は彼らに冷ややかな目を向けるピンギウも、聖遺物を覗き込みながら、バニラに向けて手を差し出した。

 バニラが黙ってその手を見ていると、ピンギウはそれをバニラの腹の前まで近づける。


「書蝋板貸してください」


「あ、あぁ。はい」


 バニラはメモを一旦置き。普段使いの書蝋板をソーセージの付いたような太い掌の上に乗せる。ピンギウは短く礼を言い、書蝋板に計算を始めた。


 その間にも司祭への質問攻めが続く。司祭は神学的な見地から、出来る限り建設的な回答をするが、それに対して科学的見地から、魔法学的見地から異論を述べられると、口を結んで祭壇を仰ぐ。潤み始めた瞳が薔薇窓の光を受けてきらきらと輝き出す。

 溢れた色彩が徐々にオリエタスの尊顔からずれていく。薔薇窓を仰ぐ背の高い像が、気づけば悲し気に光の欠けていく様を不安げに睨んでいた。


「確かに、太さから言って、長身、筋肉質とは言いづらい……。聖オリエタスではない神のものかもしれない」


 ピンギウは一人でぶつぶつと呟きながら、結果を静かにならしてしまう。彼は、そのまま議論に参加する様子もなく、質問攻めをする二人を遠い目で眺めていた。


「本人たちだけで完結するならば楽なんだろうけどね」


 書蝋板を返す際に、バニラに小さく耳打ちをする。教授が苦虫を噛み潰したような顔をして成り行きを見守っていたが、いよいよ質問攻めが信仰の領域から離れていき、二人の学生は聖堂の構造へ対する賛辞へと舵を取り始めた。


「バニラさんはどう思う?宗教世界っていうものは、本来解明されない事に意味があると思うんだ」


「え。それは、まぁ……分からない部分を追求するのが彼らの性分なんだから、自由にしておけばいいとも思うけれど。俺としては、神の実在云々よりも、ここに置かれたカミシアが与える精神的な効果の方が、ずっと大きいと思うから、解き明かす事に意味はないかもしれない」


 質問攻めを楽しむ二人の学生と比べると、カミシアをぼんやりと眺めるこの二名は落ち着いている。声も聖堂に響くようなものではないし、祭壇の神秘性を損なうような事はしない。オリエタスの像を見上げる視線も、厭世的でも懐疑的でもなく、宗教体験としてのカミシアとの出会いにもある程度胸をときめかせていた。

 その証拠に、バニラは姿勢を正して遺物と向き合っており、ピンギウはやや遺物から間を置いて、あまり遺物を見下ろすような姿勢を取っていなかった。


「諸聖人にもいろいろある。神を無垢に信じる者、神と顔を向い合せる事に喜びを感じるもの。この大聖堂だって、そうだ」


 そう言って天井を見回すピンギウに、一同の視線が向いた。勢いも声量も決して変えることは無かったが、彼は静かに祭壇を降りながら、移り変わる支柱に描かれたオリエタスの物語を逆行する。オリエタスがその弦をエストーラの皇帝に託し、現世を立ち去る絵画、聖衣を受け取る姿、人と共に要塞を築く様子、指揮官として異端の都市を破壊する様子、カペラの結婚式に向かうオリヴィエスを不安げに見上げる様子、最高神ヨシュアから弦を受け取る様子。その一つ一つを通り過ぎる際に、彼は柱に軽く触れ、そして、吟味するように手のひらでなぞった。


 最後に薔薇窓を見上げた後で振り返り、はにかみがちに笑って見せた。


「いずれにせよ、ここに人が信じて造ったものが、美しいという事実だけで十分でしょう?」


「……その通り。その通りだ」


 教授は安堵して頷く。呆気に取られて見下ろす司祭に向けて、ピンギウは首を傾げて笑みを向ける。その時初めて、大聖堂の静寂は改めて神秘性を纏うようになった。


 薔薇窓の視線が部屋の端へと徐々に向かって行く。輝きを失ったオリエタス表情は、深くなった彫りの為に、却って勇ましく思えた。


「有難うございました。さ、町を廻ろう」


 ピンギウは改めて頭を下げ、そして余韻に浸るようにゆっくりと、サン・カミシアの左側の扉から外へと出ていった。教授は改めて硬貨を司祭に握らせると、困ったような笑みと短い礼の後に祭壇から遠ざかっていく。二人の遍歴学生達は顔を見合わせ、外の世界への関心の笑みを浮かべ合い、勝手に宗教論争をしながら祭壇の前を降りていく。


 バニラは静かに顔を上げ、目が合った司祭に申し訳なさそうな表情を向けた。


「行ってきなさい。私達の仕事は確かに、あの肥えた学生の言うような事です」


 礼をし、躊躇いながら踵を返すバニラに対し、司祭はその背中を軽く押す。薔薇窓の輝きが徐々に動く。オリエタスの像はただ黙って、若く狭い肩を見下ろしていた。


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