ソルテ2
大聖堂とは、司教の座する司教座を擁する教会の事であり、都市の中心をなす聖域である。古来より人々はこのような聖域を中心に進化を果たしてきた。サン・カミシア大聖堂の聖性はこの歴史と信仰に裏打ちされた永遠性の象徴であり、その内部構造をより美しく、荘厳にすることは、当時の人々にとっては急務であっただろう。
しかし、酒と食事と遊びにこそ生の喜びを見出す遍歴学生にとっては、それらの荘厳さは必ずしも崇高なものではありえなかった。
高い天井とひしめく長椅子、薄暗い中にくっきりと映った薔薇窓からの色彩豊かな光、高い天井を支えるための支柱、支柱から伸びる側廊、支柱に描かれた宗教画、その全てを眼に入れてなお、彼らの歓声には旅の喜びが勝っていた。
「サン・カミシアの言葉の由来は、この地に齎された聖遺物、『神の衣』からきている。これは狩猟神であり守護者である聖オリエタスの衣と言われ、その証拠に弓で引いたような跡がある。ほんの小さな証明に過ぎないが、それでもこれで十分な神秘性がある」
モーリスの解説を聞いているのか聞いていないのか、一同はきょろきょろと内装を見回して、各々がその神話の数々に思いを巡らせている。
メモを熱心に取っているバニラであっても、彼らと同じように周囲を見回したい衝動は大きかった。学生達の感動はもっぱら楽しい旅の記録に過ぎないようだが、バニラにとっては旅の記録は全て重要なもののように思え、足踏みをするのも憚られたのだった。・
「……自由に見てきなさい。一時間後には戻るように」
モーリスは小さく鼻で溜息を吐いた。学生一同が一斉に返事をすると、ずっとメモを取っていたバニラもやっと多くの彫刻に目を向けることが出来た。
「この支柱はそれぞれオリエタスの神話が刻まれているんだね」
「確かに、このシーンには覚えがあります」
そう言って、バニラは暗雲垂れ込める絵画に視線を移す。ほんのりと顔料のにおいがするほどの一面の暗色の中で、弓を持った聖オリエタスが丘の上に佇んでいる。女神カペラの婚約の際に、激しく雷を打ち鳴らして祝福をする雷の神オリヴィエスを、東の地から警戒するオリエタスの姿である。
オリエタスは西方世界の守護者であるため、常に前線に赴くことが出来る位置にいなければならない為に、荒々しい雷の神の祝福に神経質になっているという構図と言われている。
「カペラの結婚」の構図は他国でもよく見られる題材であるが、このようにオリエタスの視点からこの構図を描く例は非常に珍しい。バニラはこれをよく「カペラの結婚」の端で見ている構図を何度か目にしていたのであろう。
「オリヴィエス神は祝福のつもりなんだが、危なっかしいものを見るオリエタスの気持ちも良く分かるね」
「俺の聞いた話じゃあ、敵に警鐘を打ち鳴らしている姿なんて解釈もあるらしいな」
「僕の聞いた話だと、単に嫌がらせって話ですけど」
全員がその支柱に群がり、それぞれの知識を披露する。神学についても学士号を持つルクスは、楽しそうに指をくるくると回しながら答えた。
「僕の言った解釈は、オーソドックスではあるが後世のイメージ、つまり大福祉国家ムスコール大公国の主宰神であるという穏やかさのイメージから来るものだろう。クロ坊のものは、実際に神学的に正しい解釈で、祝いの席ではオリヴィエス神が雷を打ち鳴らす事が多いから、一種のまじないの意味があっただろうとは解釈されている。ピングーのは、まぁ、そう言う俗説はあるね。僕も専門外だからね、この辺りは」
「へぇ。謙虚じゃん。珍しいな」
クロ―ヴィスが意地悪そうな笑みを浮かべる。ルクスは余裕綽々とした表情で、クロ―ヴィスの頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「たんに興味がないだけなんだけどね」
「おい、こら。ヤメロッテ……!」
「教会の中で騒がないで下さい」
ピンギウが支柱の前から一歩後ずさる。自分の無関係を装いたいのか、そのまま背後にある―正面から向かって左側の支柱に視線を逸らす。
バニラは二人のじゃれ合いを遠い目で見つめながら、その背後にある暗雲の景色に思いを馳せた。
まだ神が隆盛の時代、カテドラルの建築に様々な様式が生まれたが、カペルを中心とする内陸文化の特徴として、側廊や高い天井を支えるための多くの支柱に物語の一シーンを描くものが多くあった。このような支柱文化は、一つの天井画に多くの意味を求め、「広い空間」によって神秘性を高めるムスコール大公国など東方世界の文化とは一線を画するものである。
その中に描かれた神々は、天候や、美や、運命を支配する。暗雲垂れ込める情景を人間が徐々に解明し始めると、この絵画にあるような神秘性は損なわれ、バニラ達にとっては実に現代的な人間の進化へ対する信仰が新たに生まれ始めた。
バニラ自身にとってもそれは例外的なものではなく、今彼が暗雲に思いを馳せているのは、神の為ではなくその先の世界‐‐かつて神の世界であった天蓋の向こう側‐‐の為である。
「こっちは「オリエタスの大要塞」だ。現在のエストーラに当たる地に、オリエタスは世界の守護者としての拠点を作った」
ピンギウがそう呟く。各々が騒ぎを中断させて、その支柱に視線を送る。
「建立する際には多くの篝火と丘陵の岩を削ったから、この絵画でも採掘の様子が描かれているね」
ルクスは顎を摩りながら解説する。彼の肩の向こうから身を乗り出したクロ―ヴィスは、支柱を見て鼻で嗤った。
「見ろよ。そんな古代に籠型回転子があるぞ。時代考証がなってないな」
「実に数理係の頭脳が働いた指摘だね。逆に言えば、これを書いた当時には既に「籠型回転子」が存在しているんだと解釈できる。つまり……」
「大聖堂建築時代の遺産、と言う事が分かるね」
沈黙を守っていたモーリス教授がゆっくりと近づいてくる。学生達は一斉に振り返り、恩師の言葉の続きを待った。すっかり沈黙を作ってしまったモーリスは、ばつが悪くなり、一つ咳払いをすると、中央祭壇に視線を送った。
祭壇にはグランド・ツアーの参加者がぞろぞろと集い、聖遺物に祈りを捧げている。金貨の音が鳴るたびに、クロ―ヴィスが舌を出して眉を顰める。
「そろそろ、サン・カミシアの由来となったオリエタスの聖衣を見に行こう」
バニラは思わず唾をのむ。彼にとっては人生初の聖遺物である。緊張に強張った表情を覗き込んだ他の学生達が、その初々しさに思わず笑みを零したのも気づかなかった。