ペアリス‐ソルテ3
深夜、消灯時間を厳守するように言われた人々が、こそこそと話をするような時間に、バニラは使い古された四分儀を取り出し、角度を測る。今となっては時代遅れの幾つかの観測具‐‐天球図、四分儀、手製の指南魚などだ。
古ぼけた観測具に混ざって、天文学に多大な影響を齎した人々の著作の写本が積み上げられている。どれも、彼が身銭を切って積み立てた財産の数々だ。宿から出る事は禁止されているので、彼は小さな窓から四分儀を用いて星々の角度を測り、そして最後に月の浮かぶ場所を測った。
(あと半年と十二日……)
古びた紙の上に、几帳面に書かれた細かな数字の羅列は、彼の幼い頃、五年近く前から続くものだ。高価な紙を与えられた彼が毎日書いた数字は、全てある事象、月食の観測予定に関する本の予測が正しいかどうかを確かめるために続けられていた。今となってはこうして書き記す理由もないことを自覚していない彼ではないが、長く続いている慣習を終えるには抵抗感があったため、こうして毎日欠かさず、数字の記録を残している。
「随分古い機器だ。物持ちが良いんだね」
頭上から声がしたので、彼は視線を上げる。そこには、羽根つき帽を脱いだルクスの姿があった。
彼はバニラの横に座り込むと、四分儀をまじまじと見つめたり、興味深そうに指南魚に目を凝らしてたりしている。
「天体観測が好きなわけだ。この……木に磁石を差し込んだものは方位磁針の代わりだね?それに旧式の象限儀だ。どうだい、正解だろう?」
「半分正解です」
バニラは四分儀を下ろし、記録を残した紙を丁寧に丸めながら答える。一方のルクスは、多少落胆した様子で、胸元の帽子をくしゃりと握った。
「ほう、僕としたことが、半分か……」
こうして並ぶことで、青年はこの学者がかなりの長身であることに驚かされる。決して背は低くない自分の頭より上に突き出た鼻のある顔は、端正な風貌で、細くしなやかな体をさり気なく強調する服装も、彼のスタイルの良さと良くかみ合っている。
片眼鏡を外し、指南魚を水の張った木皿から持ち上げると、ルクスは酷く残念そうに眉を下ろした。
「邪魔だったかな?」
「いえ、丁度日課は終わったところですから」
長身の男は片づけを終えるまでの一部始終を眺める。慌てる様子もなく、全ての道具を仕舞った彼は、ゆっくりと立ち上がり、今度は小さな作業机に向かった。
「真面目だねぇ」
「えぇっと、寝ないのですか?」
「クロは昔から寝るのが速いからね、暇しちゃうんだけど、ほら、僕はそれほど寝なくても大丈夫だろう?目はぱっちり開いていて寝付けないんだ。どうだい、日課も兼ねて、僕と少しばかり雑談をしないかい?その年なら、恋の一つでもあるだろう?」
「恋……?」
バニラは無表情で切り返す。感情の籠っていない声に、ルクスも思わず口を結ぶ。
ルクスは両の手で帽子を直しながら、作業机を覗き込む。星の動きを丁寧に記録した用紙には、補足の文字が所狭しと記されている。
「ミニアチュールのようなノートだ」
「俺、金持ちじゃないので。どうしても、紙を無駄にできないんですよ」
敢えて追記するとすれば、彼は金持ちになった後でも、身に着けたこの細密な文字列は簡単に直せないであろう。メモ魔とは、元来そう言うものである。
「魔法科学が専攻だと聞いていたが、星の秘跡の研究と言うわけではないようだね」
「えぇ、むしろ感覚としては、魔法工学に近いのだと思います」
「月を目指すとは面白い事をいうものだ」
「どこから聞いていたんですか」
「聞いてはいないが、それだけ月に執着しているのならば、そんなところだろうと思ってね。正解かな?」
ルクスは口角を持ち上げる。バニラは沈黙したまま、静かに頷いた。
「そうだ、君に頼みたいことがあってね!」
「頼みたい事?」
そう言うと、ルクスは白紙のノートを取り出し、そこに几帳面な地で一つの歌が書かれていた。
それは、旅行前夜に酒場で歌った歌であった。
「ここに、旅の記録を書いてほしい。なに、真面目そうだから安心できると思ってね。正解のご褒美という事で頼まれてくれないか?」
「はぁ。まぁ、いいですが」
「有難う!宜しく!」
ルクスはバニラの背中を強く二回叩く。思わず顔を顰めたバニラに対して、今度は背中を軽く摩り謝罪をした。
「すっきりしたし、そろそろ寝ようかな?君も、ちゃんと休むんだよ?」
彼は大きく背伸びをする。
「えぇ、おやすみなさい」
ルクスは機嫌よさげに鼻歌を歌いながら、雑魚寝用の寝室の中に良質のマットを広げて横になった。そのまま暫くして、三つ目の寝息が立ち始める。
バニラの夜を徹する静かな時間は、月の傾きが西に傾き始めるまで続いた。