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ペアリス-ソルテ2

 この大旅行には幾人かの要人たちも招かれている。そうする事によって、ナルボヌの令嬢は自分の城を「宿泊施設」として利用させ、荒稼ぎを謀ろうとしているのだという事を、狡猾な彼女の本性を知るルクスは他言しないでいた。


 貴人たちへの挨拶回りと、後援の取り付けもそこそこに、ルクスとモーリスは自分の食卓に戻り、二人でいつの間にか運ばれていた食事に手を付けた。


 野菜を寄り分け、果物で水分を満たし、鶏肉に嚙り付く事の出来るルクスにとって、大地の野菜を手掴みし、トレンチャーに移しながらもそもそと食べるモーリスの食事の仕方は随分と下品なものに思われたが、同時に、素朴な聖職者のような、何処か心安らぐ仕草にも思われた。


 店内をぐるりと見まわすと、強引に手で肉をつまみ、肉汁だらけの手を服で拭う蛮族のような男達が、真っ赤な顔をして泣いたり、笑ったり、あるいは喧嘩をしたりしている。ルクスにとってこの喧噪は決して窮屈なものではない。むしろ歓迎すべき下品さであり、自分の高貴なる身分を証明する機構でもあり、彼自身がそれに混ざる事を時折望む瞬間さえあった。


 それは学生と言う地位に甘んずることで初めて達成できるもので、彼は講師の傍ら他の学問分野に手を出し、我ながら恥ずべき程に学生の身分にしがみついている。


 三十路を過ぎた彼はいつまでも、心だけはせめて若いままでありたいと、そう願いながら学問の道を志す。そこに未来があるかないかは彼にとっては無関係だが、未来の道が定まらない、いまだ花の二十代を謳歌するほか三人の学生達を、羨ましく思い、微笑ましく見つめる。それが、彼が望む不可逆的なものを取り戻したいという意志の表れでもあった。


 その中の一人、バニラ・エクソスなる人物は、酷く生真面目でつまらなく、学生らしい若さよりも学者のような頭の固さを持っており、ルクスにとってこの旅に期待したものには不釣り合いに思える人物であった。


「失礼ですが、モーリス教授。何故彼を、バニラ・エクソス氏をこの旅に招いたのでしょうか。もしや施しの目的でしょうか」


 施しによって魂が救われる時代はとうに過ぎ去ったが、今もなお、施しが政治的に与える好印象は大きい。もしもルクスの地位を慮っているのであれば、それはやはり杞憂なのだと、この好々爺に伝えなければならない。


 ちょうど肉を食べ、ウォーターボウルに手を入れて濯いでいたモーリスが、慌てて食事を飲み込む。弱い嚥下能力に多少の咳をしたこの男は、ナプキンで口を拭いながら、暖かな眼差しを学生達へ向けた。


「まぁ、彼は……非凡でもなく、少し頭が固い所もありますね」


 モーリスは静かに答える。鼻を掠める肉汁の匂いと共に、酒臭さを伴った笑い声が何処からともなく響き渡る。

 小さな蝋燭が揺れると、静寂に包まれていた一角に、オレンジ色の明かりがさしこんだ。


「しかし、招いたからには理由があるのでしょう?」


「彼はとてもまじめで、真面目過ぎてしまうきらいがある。私は学生と言う時期に、彼ほど真面目な学生ばかりを見て来たわけではない。月を夢見る少年と言えば何処か幻想的だが、彼の場合はそれさえも、現実に飲み込まれてしまうでしょう。彼はきっと教鞭を持ちません。だからこそ、若い時間をただ一事に費やさないでほしいのです」


 教育者は、一人の若者が学問に没頭する事だけを望むわけではない。モーリスは皺の寄った目尻を瞼と共に下ろし、遠い日の記憶を思うように微笑んだ。

 少しばかりやんちゃすぎる方がいいなどと、彼は一言も言わないまま、ルクスに答えを求めるように沈黙に沈む。


「……なるほど」


 モーリスは静かにルクスの酒を酌む。返答と共に、ルクスも又、この教育者に酒を注ぎ返した。


「丁度ウネッザも通る。聖マッキオの天文教会は、彼にとってもいい経験になる事でしょう」


「彼はきっとそれを楽しみにしていると思いますよ。その時に、彼らしくない表情が見えたなら、この旅には意味があったと、私はそう思います」


 静かに皺が寄る。細くて角ばった、しかしたるんだ頬と、重ねた皺の数だけ、彼の熱意はルクスに多少なりとも理屈のない納得感を与えた。互いに小さくグラスを寄せ合い、重なり合う高い音と同じように、紅の美酒は喉の奥に流し込まれていく。


 喧噪の中で、今も少年は静かな受け答えをしている。黙々と酒を飲む男と、紅顔の美少年然とした青年に向けて、何かを熱く語っている。

 酒場のにおいはアルコールと肉汁とに満たされており、彼の全景を霞ませる。ルクスの視界もまた、多少歪んでいた。


 モーリスは静かに水を啜る。そして、例の愛らしい下品さで食事を続ける。色鮮やかな野菜を日持ちさせるために、犠牲にした色彩とはりも、彼にはとても食べるに楽しいものだったに違いない。

 喧噪の中での晩酌は、その音を周囲に飲み込まれながらも、確かな存在感を持ってそこに存在していた。


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