ペアリス1
花の香り漂う大通りに、花冠の銅像が空に錫杖を掲げる。白く澄み切った凱旋門が太陽を反射し、バニラ・エクソスは目を細めた。
凱旋門に立つカペル王フランツ・トゥアは眩いばかりの勝利の剣を真っすぐに天球を突き刺し、雲を断ち切り、中天の太陽の煌々と照り付ける光に瞬く。象牙の装飾で着飾った女が彼の後ろを通り過ぎると、思わず背虫が潰れて背中が伸びる。張った胸は通り過ぎた女の顔を一瞥してすぐに縮み、手元の頭陀袋の重さに小さなため息を漏らした。
基礎教養学士・魔法科学学士課程専攻のバニラは、洗練されたカペル王国王都ペアリス出身の生粋のカぺル人である。しかし、流行のペアリス・モードにも関心を示さず、学士帽に学生用のゆったりとした丈の長い黒色トーガ、覗く足先を木靴とサン・キュロットが隠す様は凡そ流行に敏感なカぺーリストには似つかわしくない。
道行く人々の浮足立った様子は、勝利の美酒とも、ペアリス・モードとも無縁のこの若者の目には歪に映り、香水の残り香も芳しさよりは集中力を殺ぐのに役立った。
彼の頭陀袋には『モンド・ルーナス』、即ち月の世界と名付けられた古い著作が納められている。使い古された頭陀袋の中にある最新の研究資料と共に黴臭い冒険小説が入っている事‐‐しかも、それが神の御業を侵害するような冒涜性に満ちている事‐‐について、読者は大いに疑問に思う事であろう。しかし、『モンド・ルーナス』こそが彼の学問の原点であって、そして彼の生涯の目標であることも疑いない事であった。
この生真面目な学生は空を見上げるたびに、青空の向こう側にあるはずの物、星々の瞬きに思いを馳せたし、同じほど月の青白い輝きに魅せられて、その大地に降り立ってみたいと本気で思ってきた。
技術革新に取り残されたカペル王国の主要学問は未だに神学であるが、これは旧来の神聖性を帯びる代わりに、この花の香水に浮足立った人々の正当化の為に理由付けをする芸術的学問となった。今や彼らは世俗の奴隷であって、免罪符も、十字軍も、何もかもが陳腐な過去の歴史に埋もれてしまった。
それでもペアリス・モードに毒された赤煉瓦と大理石の街並みを進む若き学士は、真っ直ぐに伸びる大通りの、左右に広がるあらゆる誘惑に目もくれず、毎日の至高へと向かって進んでいた。
フランツ・トゥアの凱旋門を抜け、花冠の女神の像を通り過ぎ、市場広場の肉の香りに鼻をくすぐられながら、彼は目的地へと進んでいく。
散見されていた浮足立った人々が疎らになり、自分と同じ黒い学士帽を被る人々が欠伸と歓談をこなす。彼らは彼らの興味に従い、一つの場所に導かれるように集まっている。
彼は今一度立ち止まり、いつも通りに帽子を胸元に降ろして門の前で頭を下げた。
「今日も、宜しくお願いします」
彼の頭の先には、白がくすんだような黄色の外壁と、古代世界を思わせるイオニア式の支柱と、鳥が両翼を広げたような扁平で横長の建物が聳える。アーチを擁したいくつもの小さな窓と、鼠色の屋根を支える浮き出たような角柱。
彼はこの場所で朝日が昇ると学び、そして夕日が沈むまで研究に没頭する。ここは、花冠の女神カペラに愛された、花の都ペアリスが擁する「学」の中枢、古典の黴臭さと最新論文の錆の匂いが入り混じる「学」の中枢、王に大学特区として認められた、ペアリス大学である。
バニラは屯する学生達と同じような、茶色く変色し、使い古された頭陀袋を抱えなおし、ペアリス大学へと一歩一歩、噛みしめるように歩き出した。
そして、この若者はこの日、このペアリス大学を旅立つ事になる。偉大なる学堂から酒と遊びの誘惑の世界と、そしてうら若き苦しみの世界へと踏み出す。世界の半分を目指した彼の、世界のもう半分の旅路。そのきっかけは、他ならぬこの、世界の半分から始まったのである。