蒼穹を切る白球に夢を見る
原稿用紙10枚の短編小説に挑戦中です。
マウンドに集まった選手が青雲を突き刺すように人差し指を立てる。伝令の背番号十五番が駆け足でベンチに戻る。
僕は放送席から我が子を見守るような気持ちで彼らの一挙手一投足に目を見張った。
「6点差があっても彼らの瞳に『あきらめ』の文字は映っていません」
「そうですよ」
隣で10年来の付き合いになる解説の宮市監督も間髪入れず声をあげた。
研修でも架空実況でも、いつの時だって先輩アナウンサーから公平に実況するように、と教わってきた。もちろんそれは当然だ。だからこそ、僕は公平に、点差があっても可能性があると信じてそう実況した。
3対3で迎えた9回の表、先攻のチームが均衡を破り、猛攻で一気に6点をあげた。これ以上追加点が入ると厳しいというところで、先ほどの伝令がマウンドに送られた。エースが立ち直り、スリーアウトで9回の裏に突入した。
地方大会の決勝。甲子園への切符をかけての大一番。最後に校歌を歌った方が夢の大舞台へと向かう。
ベンチ前で円陣を組む泥だらけのユニホームの選手たちは仰け反るようにして大声をあげた。この回先頭の二番打者がバッターボックスに入る。
エースが振りかぶってキャッチャーミットめがけて全力投球する。ミットは外角低め。エースが投げた球は内角高めへ、いわゆる逆球。バットを短く持っていたバッターは叩きつけるバッティングで打球はショートの前でショートバウンド。カバーに入ったサードが深い位置から一塁送球。わずかにランナーの足が速く、審判は両手を水平に広げ、セーフ。
「足の速い溝口、内野安打。まずは反撃の糸口を掴みました。ここから地方大会打率5割以上を誇るクリーンナップトリオが続きます」
ノーアウトの先頭打者の出塁によって、応援席のメガホンを叩く音は大きく響き、黄色い声と野太い声が交錯する。
キャッチャーが立ち上がって内野手と外野手に守備位置の確認をする。エースは帽子を脱いでアンダーシャツで額の汗を拭う。
三番バッターはバッターボックスの外でバットを勢いよく振っている。
「ここは6点差。しかも当たっている三番ですから強振でいくでしょうか」
実況に自信のないときは素直に解説に振る。
「そうですね。送りバントでランナーを進めるという手もありますが、点差を考えると。ただ、ダブルプレーとフライアウトは気をつけたいところですね。叩きつけるバッティングでランナーをためていきたいですね」
紺碧の空を飛行機雲が渡っている。白球を追いかける球児たちにこのような晴天が大会を通じて続いたことが何よりの贈り物だった。そんな今大会を象徴するような今日の天気。
三番の香西が主審に一礼してバッターボックスに入る。バットをライトスタンドに向けてかざし、オー、と声を上げる。後ずさりするようにライトとセンターがフェンスギリギリに守る。
エース宮原はキャッチャーのサインに二度首を振り、三度目で頷く。
振りかぶって一球目を投げる。しなやかに鍛えられた体全体を使って腕を振る。ボールはバッターの胸元に。バッターの香西は強振して空振り、二回転して最後はバッターボックスにしゃがみ込んだ。
「エースの宮原、今日は先発していますが、ボールの勢いはむしろ増しているという感じです」
解説の宮市監督は黙って頷く。
離塁した瞬間、エース宮原が牽制。慌ててベースに戻る溝口にファーストを守る小川がタッチ。間一髪でセーフ。球場にどよめきが起こる。同時に大きな拍手が起きる。応援席では涙を流しタオルで目を覆う女子学生の姿も見受けられる。
溝口がルーティーンである、ライトスタンドに向けてバットをかざし、またオー、と大きな声を上げる。ライトとセンターは定位置からかなり後方で長打を警戒。
「……」
あれ? あれ? 急に声が出なくなった。「……」
あれ? おかしい。声が出ない。
ジリリリリリ。
目覚まし時計がなる。またか。最近、同じ夢をよく見る。実況をしていて途中で声が出なくなる夢だ。しかも大事な甲子園を決める試合での一幕。
アナウンス職に就いてン十年。こんな夢はしょっちゅうだ。
妻が食卓に朝食を用意してくれている。妻は僕より先に出るので朝食はいつも僕一人だ。ジャージからスーツに着替える。三面鏡の前で、正面と横顔を確認し、
「幸い家内は今いない、家内がいない間に会いたい」
などという新人研修の教則本に書いてあった「イ」の行の滑舌練習を、それこそ妻のいない間に言ってみる。誤解しないでもらいたい。僕は結婚してから今まで浮気などしたことはない。こういう仕事をしていると、誤解されがちだが、タレントとそういう関係にはならない。一般の女性ファンは何人もいた(過去形)が。髪の毛がまだあった頃はこんな僕でもファンがいたのだ。
テレビを点けてみる。この時期は新人アナウンサーの初鳴き(初めて放送に声が乗ること)を楽しみにしている。
新入社員の頃を思い出すから、彼らの姿は初心に戻る意味でも小っ恥ずかしい。こちらが手に汗を握り、赤面してしまう。というのも、緊張しているのはプロから見れば(聞けばが正しいか)声の震えでわかるからだ。
ただ、一つだけ、地方アナウンサーからのアドバイスだが、フリーにならないか、という甘い誘いには気をつけた方がいい。それで失敗したのが僕だからだ。キー局の情報番組を持つ先輩から年収やら条件のことを色々聞かされて、
「お前も大丈夫やって。いいぞ」
と唆されたなら一巻の終わり。地方局からフリーで活躍するアナウンサーなんて氷山の一角、というか、アイダホのジャガイモ畑から一個のジャガイモを見つけるようなもの。
なんの面白みもない僕のような脱個性アナウンサーというのは、せいぜいが先輩の縁で少し単発の番組に出て終わり、というのが関の山。
あんな夢をいまだに見るということは、アナウンサーという職業に少しは未練があるんだろうな。局という看板に守られているから、大きな顔ができた。でも、一般社会に入ってしまえばそれは弊害でもなんでもない。
慕ってくれた後輩も自分の番組を持つようになったりしたら忙しくて退職した僕なんて相手にはしてくれない。
くたびれたスーツを着て、今日も面接会場に向かう。
駅前の大きなビルの受付で中年の男が若い学生たちに混じって面接に来たことを告げる。案内された部屋の待合室で息子のような歳の若者に混じって面接を待つ。
面接官に自己紹介をする。さんざ自己紹介の練習なんてのは局時代に練習してきた。それにお手の物だった。いつものように自己紹介を、と身振り手振りで所々面白いエピソードを入れて話す。
途中で面接官の顔がほくそ笑む。
「山下さん、さすがは前職が前職ですね。当社の営業はですね、山下さんのようなアグレッシブな人が……」
隣で銀縁の眼鏡をかけた重役のような人が、ニヤリと口元を緩めた。
しめた。
手応えを感じた。
帰りの地下鉄で窓に映る自分の姿を見ながら、ネクタイを人差し指で緩める。少しにやけている自分がいる。
家に着くと、いつもはすぐに話しかけてくる妻が珍しく黙々と夕食の準備を整えている。
「さっき、○○商事さんから電話があって」
妻がそういうので慌てて携帯を見ると、着信が一件あった。
「で? なんて?」
「今回はご期待に添えなかったとお伝えください、って」
僕はふてくされて、テレビを点けた。
「センター前ヒット、三塁ランナーが帰ってくる。サードコーチャーはぐるぐる手を回す、二塁ランナーも帰ってくる。逆転ー。なんとも数奇な結末。6点差をひっくり返して、甲子園出場切符を勝ち取ったのは……」
思わず僕はそう叫んでしまった。
「あなた、やっぱり、アナウンサーって仕事が好きだったのね」
妻が用意してくれたのは、僕が彼女と出会ってから最初に作ってくれた僕の大好物のポテトサラダだった。
選ばれたジャガイモが我が家へやってきて、僕の口に入る。今、僕は幸せだ。幸い、家内も健康で、家内がいない生活は考えられない。(了)
ここまで時間を割いてお読みいただきありがとうございました。