自由人
こうして私の新学期は幕を開けた。リュイとは顔も合わせていないし、コールデン家からの連絡もない。バーニーともあのお茶会からご無沙汰している。二人が今何を考えて、これからどうするつもりなのか。そして突然帰国したはとこの問題児はちゃんと通学する気はあるのだろうか。
問題は山積みのように思えたが、心配しても私の胃が痛むだけだということに一昨日気が付いた。実際問題に直面したときに考えるしかない。同じ轍を踏まないための傾向と対策は経験によってしか得られない。
私は校門の前で一度深呼吸をした。私は現実逃避の傍ら、身の振り方を考えた。努めて『いつも通り』過ごすことが最善であるように思えた。いくらリュイやバーニー、周りに腹が立っても涼しい顔をしていることだ。粛々と今まで通り、やるべきことをやる。
私がリュイに婚約破棄を突きつけられてから―完全に『女』としても『人』としても裏切られてから。あっという間に一か月経った。心の大怪我はまだ塞がってもいないが、あの夜の出来事が遠い昔のように感じる。周りはどうだろうか。内心ドキドキしながら私は校門をくぐった。
「あ、サレナ嬢…」
「サレナ嬢だ」
ひそひそと何か聞こえる…が、誰も話しかけてくる気配はない。別にいいけれど。私は歩調を速め、追い越すときにすれ違う生徒には軽く会釈をして校内に入った。今日から三年生の教室だ。三クラスあるから、間違えないように行かなくては。まずは掲示板に大きく張り出されたクラス分けの一覧を確認しよう。
私はすでに人だかりができている方へ向かった。いくらなんでもあんなことがあった私とリュイ&バーニーを同じクラスにするわけがないという確信があった。もし外れたら地獄の一年間がスタートし、慢性的に逆流性食道炎とかに罹る自信がある。
背伸びをして掲示板を見ようとしたとき。上に伸びようという意思に反して、何故だか違う方向へ体が引っ張られた。一瞬何が起こったのか分からなかった。そのくらい驚きすぎて心臓が口から出るかと思った。そして当然思ってもいない方へ体が動かされたものだから私はバランスを崩した。しかし、私の手は背後の人物にガッシリと握られていたので転ぶことを免れた。
「ヴァン君…何でしょうか…あと放してください」
「行くぞ」
「ええ…?」
いきなり私の手を引いたのは悪戯でも何でもなかったらしい。ヴァン君は私の腕をぐいぐいと引いたまま、彼の歩幅でずんずん歩いた。私はお母さんに連行される小さい子よろしく、時折追いつけなくなって小走りを挟みながら後を追った。ぴょんぴょんと引きずられる様子は何と滑稽だろうか。ああほら、皆が目を丸くして見ている。皆見慣れない人物に大注目しているようだが、私のこの悲壮な顔もよく見ておいてほしい。
「着いたぞ」
彼の目的地は三年生の教室だった。ヴァン君は適当な席に腰かけ、「お前も座れ」とでも言うように、顎で指示した。
「ヴァン君はこのクラスなの?」
私は立ったまま尋ねた。ヴァン君の眉間がわずかに寄るが、これくらいでビビっていてはやっていけない。
「お前もな」
「本当に?」
「…奴らの部屋に放り込んでやろうか」
「ごめんなさい」
ここで言う『奴ら』とは疑いようも無くリュイとバーニーのことだろう。いい加減ヴァン君の睨みがきついので私はやむなく彼の隣の席に座った。クラスの人々は皆静かにヴァン君を盗み見ながらずっと「この人誰だろう」という顔をしていた。私は自分の目でクラス分けを確認したわけではないので、イマイチ安心できない。担任の先生がやってきて普通に出席を確認し始めるまで、「本当にこのクラスなのだろうか」と疑い続けた。
出席確認がヴァン君の番になったとき、生徒からの視線が先生に集中した。「紹介して」と訴えているかのようだった。先生はコホンと小さく咳払いをすると「彼は二年間留学に行っていましたが、今年度から戻ってきました。ヴァリエール・ド・ランジット君です」と非常にシンプルな説明をした。『ランジット』という姓に反応され、今度は私とヴァン君にクラスの視線が集まる。私はヴァン君の様子を窺ったが、彼は誰とも視線を合わさず気だるそうにしているだけだった。
(もう!!!!!!)
非協力的なはとこの代わりに、私は「親戚です」と肯定する意を込めてニコリとほほ笑んだ。
朝礼が終わると、ヴァン君は猫のようにふらりと姿を消した。気が付いたらいなかった。何て人だ。今日は半日で学校は終わりだが、もう戻ってこないつもりだろうか。『途中でいなくなる』ということ自体、皆信じられない様子だったが、先生が探しにも行かず、初日から諦めモードだったことにもだいぶ驚いているようだった。先生のその様子から、留学に出る前から常習犯だったことが想像できる。私は周囲から戸惑いの視線を頂戴していたが、「ああいう人なんです」と言うわけにもいかないので、ひたすら物憂げに外を眺めてやり過ごした。
その後、結局ヴァン君は教室に帰ってくることは無かった。終礼後に先生が私の席に立ち寄り「彼をよろしくね」と小さい声で言って去って行った。私はとても「はい」とは言えず、曖昧な笑みを返すことしかできなかった。同じクラスになったのはお世話係のためなのかもしれない。
それから。ヴァン君不在事件は一日だけでは済まなかった。というか、もはや連日居ないので、事件ですらなくなった。最初は戸惑っていたクラスメートたちも三日もすると慣れたようだ。逆にふらりと現れたりすると皆ドギマギしてしまう。誰も本人と話したことはないけれど、彼のその行動から『やばい人』であることは周知の事実となった。どうやら他のクラスまでも知れ渡っているらしい。私は他人のフリを貫く所存だ。
「……」
「何を呆けている。食わないのか」
(貫けない)
私は目の前で当然の如くランチを口に運ぶヴァン君にげんなりしていた。学校のルールをビリビリに破っている彼が一つだけ徹底していることがある。このランチタイムだ。朝登校してきたかと思えばいなくなり、昼の時間になるときっちり現れ、どういうわけか私を昼食に連行する。そしてその後はまたどこかに行ってしまう。気まぐれに授業に出たり、出なかったり。下校の時にばったり会うこともあれば、昼食後は全く姿を見ないこともある。
「食え」
彼の前では残すことが許されない。何が何でも食べさせようとしてくる。食べないと不機嫌になるので私はモソモソとチキンのローストを口に運んだ。ざわざわとするカフェテリアの片隅で、こうして毎日ランチをしているのだが。
公の場で婚約破棄を宣言されている私と、突如として現れた問題児との昼食は、少なからず周囲の目を引いた。しかも特に楽しそうでもないのだから、それはもう近寄りがたく、私たちの周りの席は何となく空いていた。私の『いつも通り』作戦は早々に身内によって妨害を受けている気がしてならない。遠巻きに周囲の生徒に小声で何か言われているがヴァン君はどこ吹く風だ。新学期が始まって一週間を過ぎた今、私は嫌な予感がしていた。
「……おい。あれは何だ」
「え……」
(あ、あれは…)
ヴァン君の視線の先に居たのはこちらを凝視するソフィア嬢だった。クラスは違うが、ヴァン君と私の噂は当然耳に入っているだろう。
「彼女は…私を心配してくれていて…多分…」
「あんなに殺気立ってか」
「…」
ソフィア嬢はとても厳しい方だ。自分にも他人にも。もともと私とリュイの関係に物申したかったようだが、自分が前に出て私の擁護をすると、逆に私が咎められるのではないかと懸念してくれていた。が、先日の『学年末事件』を目にして、誰かが諫めなくてはだめだと悟った彼女は言った。「言うべき時は言う」と。それはもしかしなくてもバーニーに対してだけではなく、状況によっては私にも、ひょっとしたらリュイにも向けられた言葉だったのかもしれない。
人付き合いに制限のある私が、特定の(しかも胡乱な)人間と過ごしている。彼女が「ピピピピ」と笛を鳴らしながらやってくるのも時間の問題かもしれない、と薄々予感していた。まだ声をかけることを留まってくれてはいるが、きっと私に対しての疑念は今鰻上りだろう。果たして『次期王妃』として擁護する価値のある人間なのかどうか。鋭い審判の目で観察しているところに違いない。
ブリザードだ。ソフィア嬢の目から何か出ているのではないかと思う程の視線の冷たさ。コンソメスープはまだホカホカと湯気を立てているというのに、私は凍えそうだった。そんな私に反して、ヴァン君は平然と食事を続け、私に「食え」と命令した。
どうして昼ご飯を食べているだけなのに、こんなに疲れなくてはならないのだろうか。食事中、ソフィア嬢からの何か言いたげな視線は外されることはなかった。
私は強引なヴァン君を恨みつつ、逆らえない自分のことも情けなく思いながら、味のしないパンを咀嚼した。
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