燃焼
何とも言えない気持ちだった。言うなれば、そう。憑き物が落ちたかのような。突然考えることが無くなってしまったというか、やることがなくなってしまったというか。心が空っぽになってしまったというか。
「サレナ、コールデン家と話がついた。監察権云々は議会を通したりと色々面倒だが、婚約解消の方はとりあえず締結したと言っていいだろう」
先日、父に呼ばれて告げられた婚約解消の締結。私は事態が落ち着いたことに安堵し、次期王妃という重たい肩書から解放されて気が抜けた。そして名実ともに「リュイと他人になる」ということがとうとう現実になったのだという実感を噛みしめた。ホッとしたような、今までの17年間を思うとほんの少し寂しいような、複雑な気持ちだった。
私を労う父に、罪悪感がないわけではなかった。今まで大事に育ててきてくれたのは、決して自分の娘がかわいいからというだけではなかったはずだ。将来王妃になる人間として恥ずかしくないように、時には厳しく接せられた。父の思いもここで一区切りされる。そんな父が今回の決断に何も思っていないわけがない。私は自分の来し方行く末をきちんと考えて、今回のことに報いたいと思った。
「………」
「サレナ様?サレナ様?」
「……は、はい!」
私を呼ぶ声にビクッと体が跳ねた。いつの間にか、ソフィア嬢が私の席の傍に立っていた。
ついに何の障害も無くなった私とソフィア嬢の間柄は、めでたく公然と「友人関係」に進むことができた。こうして授業の合間の休憩時間や放課後に彼女はよく話に来てくれる。私は初めての友達とどう接してよいものかと手探り状態だ。どこまで親しく話してよいものか、距離感を掴めないでいる私に気を悪くすることなく、ソフィア嬢は「一番の友達」を誇らしげに名乗ってくれる。
今も、ちょっとぼんやりしていて彼女が教室に来たことに気が付かなかったが、それを咎められることは無く、むしろソフィア嬢は心配してくれた。婚約解消が決まってから何となくテンションの低い私が、彼女にとっては不思議らしい。ソフィア嬢が件の女好きの婚約者と縁が切れたなら、それはもう願ったりかなったりでこの世の春、というまでに喜ぶのにと言っていた。私だってそうなると思っていたのだが、現実とは難しい。
「…急に目的がなくなってしまったからでしょうか」
ソフィア嬢は真剣な面持ちで言った。私は「ああ…」と納得した。確かに、これまでは「リュイの婚約者」として務め続け、近頃は「婚約解消」のために尽力していた。つまり…『燃え尽き症候群』みたいなものだろうか。
そんなに熱い人間だったかと、私は自分のことを疑った。こつこつとやるべきことをやるのは得意だったし、真面目な方ではあると思っていたが、力を抜くときは全力で抜く人間だったはずだ。自室で憩っている私など酷い有様であるとメイドたちにはバレている。自分を見つめ直して心の迷宮に入りかけた私を引き戻すように、ソフィア嬢は「今まで頑張っていらした分、疲れが出たのかもしれませんわ。ゆっくりお休みになるのも大事だと思います」と何とも優しい言葉をかけてくれた。私はその言葉をジーンと噛みしめた。
(どうしたものか。もっと晴れ晴れとする予定だったのに)
私はランチのパスタをクルクルとフォークに巻き付けながらまた考えていた。軽くなり過ぎた心が不安になってきた。これからどうすればよいのだろうか。卒業後の自分の身の振り方も考えなくてはならない。うーん、上の学院に入る?ヴァン君の両親のような研究機関?それともランジット領で経済活動?それとも…。
「おい」と声をかけられて私はハッとした。手元のフォークはいつのまにか巨大なパスタの塊を作り出していた。すでに食べ終わったヴァン君は怪訝な様子でコーヒーを啜っている。
ヴァン君は、私の婚約解消が決まってからも特に変わりなく。もともとあまり物事に動じない人ではあるが、まあ自分のことでもないし、彼にとっては想定通りの事態ではあるから、驚くことでもないのだが。常に安定している彼は立派だと思った。そういえばヴァン君こそ、卒業したらどうするのだろう。言ってしまえば彼は2留している。同い年の人々は既に宮廷に上がっていたり、自分の家の職務に手を付け始めていたりしている。ヴァン君こそ、その優秀な頭を生かして何か切り開いていけそうだ。領地にいてくれるなら心強いが、どこかに縛られるのはきっと苦手だろう。
ヴァン君をジーっと見ながら思いを馳せていると、ヴァン君は居心地が悪そうにもごもごと何か言った。ため息混じりに「いよいよだな…」とか聞こえたような気がする。ヴァン君はいきなり私の手からフォークを奪うと、麺を巻き込みすぎて毛糸玉のようになったパスタを私の口に突っ込んだ。
「!!!!?????」
私は突然口にねじ込まれた塊を否応なく齧った。パスタ玉にはくっきりと歯型が付いた。あれ、パスタってこういう食べ物じゃないよね???ヴァン君は無言で容赦なくパスタ玉を私の口に押し込み続け、私は困惑しながら顎を一生懸命動かした。ようやく最後の一口を終えるとヴァン君は手早くテイクアウトのランチボックスを片付け始めた。もちゃもちゃと咀嚼しながら、私はヴァン君の行動に首を傾げる。なんだってこの人はいつも唐突なの!
抗議混じりの私の視線に対して、ヴァン君は敵にでも向けるように鋭い目つきで私をきつく睨みつけた。私は思わず「ヒエッ」と身を竦ませ、反射的に「ごめんなさい!」と謝った。こ、怖すぎる…。完全にビビる私を他所に、ヴァン君はスッと立ち上がって一言「行くぞ」と宣言するとズンズンと歩き始めた。
「どこに???」と思いながら、私は慌ててヴァン君の後を追った。
『サレナちゃんとの婚約は白紙になりました』
心の底から残念、という気持ちをあからさまに表現した言い方でリュイの母親は息子に告げた。当の息子はそれを聞き、一瞬目を見開いてハッとするも、落ち着いた様子で「そうですか」と答えた。リュイ自身、両親がサレナとの結婚を期待していたことは分かっていた。目の前の父・母の瞳はどこか冷たさを湛えている。「お前はどう考えているのか」と問うているかのようだった。
リュイはかつての自分の宣言が、彼女の家の方から『正式』に叶えられたのだということを謹んで受けとめた。やりたいなら正式にやれ、とはこういうことだ。
「…私は、ご存じでしょうが、バーニー・ド・センシール嬢と懇意にしております。願わくば彼女を私の妻として迎え入れたい」
現王妃は額を押さえた。王が厳しい面持ちで口を開く。
「人間関係は厳しく制限があったはずだが。サレナ嬢が居ながら、堂々と破っていたことを認めるのか」
「私はあの決まりが本当に適切なものか疑問を抱いておりました」
「…それが男だったらまだサレナ嬢にも言い訳が立ったものを」
きちんと分別をつけてから政界・社交界入りした後に、人間を見極める目を養ってほしかった、というのが両親の願いだった。彼らからすると、リュイの言いたいことは分かるが現時点での「規律違反」には相違ない。よってリュイの願いが叶うのを妨げる要因にしかならなかった。
「お前の結婚相手は次期王妃だ。然るべき人間でなくては父と母以外も納得しない。ましてや国民に受け入れられない人間は問題外だ。自分の意志を通したかったら、お前にも相手にも相応の努力が求められることをよく覚えておくように」
「……はい」
リュイは父親の重たい言葉に対して、苦し気に返事をした。いくらバーニーのことを想っていても、両親が思う「ふさわしい」婚約者の選別が別に行われることは嫌でも想像ができる。リュイの目的はサレナとの婚約解消がゴールではない。ここからがさらなる難関なのだ。『正式』に認められるには『正式』なやり方が必要だということは身に染みている。リュイは大事なバーニーを信じて共に頑張るしかないのだということを改めて心に刻んだ。
―――まさかの事態である。私は、いや私たちは何と午後の授業をすっぽかしていた。ヴァン君は自分と私の荷物をまとめて持つと、さっさと学園を出た。目撃した生徒たちの目は「何事か」と点になっていた。もちろん私も同様である。
半強制的に連れてこられた街のカフェ。私の目の前には、「親の仇!これでもか」というくらいに山盛りにされたクリームもりもりのパンケーキの塔がそびえ立っていた。私は「どういうことなの」という困惑を顔全体で表現した。
ヴァン君は顎で「食え」と意思表示をしてきた。ズウウウウンと重量感たっぷりのパンケーキは見るだけでお腹いっぱいになる。先ほどパスタを胃に詰め込んだばかりだ。物理的にこんなに食べられるわけがない。そもそもどうしてこんなフードファイトをヴァン君は企画してきたのだろう。意図を図りかね、私は困ってしまった。
「あの、どうして…?あと授業…ていうか授業…」
「自分から生きづらくなる質をどうにかしろ。自由さが欠落してるんだお前は。ランジットの直系だろう。もっと楽にしていろ」
私は「しまった」と思った。彼の言い方や表情、態度はそれこそ『お説教』そのものだったが、これはもしかしなくても…。
「ご心配おかけしました…」
ヴァン君は「フン」と興味なさそうに鼻を鳴らした。気を遣わせて申し訳なく、世話を焼かせて済まないと思う一方、元気づける方法が『食べさせる』の一択という点について、こういうときにちょっとスマートでないのがかわいいと思ってしまう。私は両手で顔を押さえ、じわじわとこみあげる嬉しさと愛おしさを隠した。
(自由か…)
ヴァン君の言葉で、『しなければならない』と無意識に考えてしまう自分に気がついた。
「…難しいね」
ぽつりと呟き「へへ」と笑うと、ヴァン君は難しい表情でパンケーキをツンツンと突いた。
お読みいただきありがとうございます!
※授業はサボってはいけません。




