交渉
「うえっへ…ごほごほ…ぜーはー…」
私は床に転がったまま、涙目で変な咳と乱れた呼吸を繰り返していた。果てしない情けなさ、屈辱…人前でこんなことになるなんて。涙目なのは悪心だけが理由なのではない。
急に椅子ごと倒れた私に、三人の男は仰天した。不幸中の幸い、私の胃にはモノは入っていなかったらしく、胃液が逆流した程度だった。親方と呼ばれる男が二人に指示して猿ぐつわを外させ、縄も手足以外は解かせた。
私を攫った男がさっきから私の背中をさすっている。頭がくらくらするし、何だか脱水っぽい症状が出ている気がする。親方ともう一人は、私を見下ろしながら「しまった」という顔をしていた。私が何とか「お水…」と言うと、親方は指図して水を取りに行かせた。
ゆっくりと体を起こされ、何とか水を飲んだ。最初は彼らが飲ませようとしたが、うまく飲めないので手の拘束が解かれた。自分で少しずつ水を補給する。心臓はずっと早く脈打っているが、呼吸や気持ち悪さは段々と落ち着いてきた。三人は私の様子をずっと観察している。すぐに回復した素振りを見せるのは得策ではないような気がした。何とか、この間に考えなくては。
私は頭をフル回転させた。
(この人たち…さっきのやりとりを聞いた限りではこういう悪事には全くの素人だと見て間違いないわ…)
売るあてはあるのだろうけれど、まずこの計画に自信があるようには聞こえなかった。段取りの確認中の、色んなリスクに対して不安そうな子分たちの様子からも、彼らがプロではないことが窺えた。親方の「腹を括れ」も、まるで自身に言い聞かせているようだった。
私は背中を撫でる男に視線を向けた。男は「どうしたの?」と問うような表情を返した。根は悪い人間ではなさそうだ。
もしかしたら、やけになって殺されてしまうかもしれないけれど…。私は分からないことが多い状況の中で、一縷の希望にすがることにした。
「…あの…私をどこかに売ろうとしているようだけど…」
口を開いた私に三人の視線が集まった。親方が私の前にしゃがみ込み、厳しい顔で「そうだ」と言った。迫力に負けそうになるが、このまま売られるわけにはいかない。
「私、きっとそこよりも高く引き取るところを知っているわ」
子分たちは「え」と声を漏らし、親方は怪訝そうに眉を寄せた。
辺りが薄暗くなってきた。父やアガト、そしてヴァン君たちが、私がいない異変に気が付いたかもしれない。
私を攫った男たちは、私を再び椅子に座らせた。一応は話を聞くつもりらしい。彼らからしたら、利にならない話ならば捨て置くだけだ。しかし、私にとっては千載一遇のチャンスだ。何とかするしかない。
「私の関係者なら、いくらでも払うでしょう」
「…旅行者と言えど、君一人ではないだろうが…」
「でもそんなことしたら直ぐに俺たちは追われる身だ」
親方は身を乗り出して吐き捨てるように「話にならん」と言った。私も負けじと「無計画なのはそちらだわ」と応戦する。この土地の人間以外を狙ったのは賢明だったが、いくら足がつきづらいといっても、そんな犯罪がこのランジット領で幾度も起これば彼らが犯罪者として手配されるのは時間の問題だろう。叔父さんたちの目も節穴ではない。私はこんなことは幾度もうまく行くわけがなく、遠くない未来に捕まると訴えた。
私を攫った男が「分かってる!!」と悲痛に叫んだ。親方に「おい」と制されるが、止まらなかった。
「僕たちだってやりたくてこんなことしたんじゃないんだ!まっとうに商売ができなくなったのだって僕たちのせいじゃない!親方が船を売る羽目になったのだって…!」
「黙らねえかジル!!みっともねえ!」
ジルと呼ばれた男は「親方…」と沈痛な面持ちになった。もうひとりの子分も辛そうに視線を外した。親方はイラついたように深いため息をついた。
もしかしたら、と私は思い付いた。彼らは、叔父さんたちが私に聞かせないようにしていた、治安悪化の一片なのかもしれない。私は改めて彼らの姿を観察した。くたびれた衣服、やつれた顔、明らかに貧しく、追い詰められていることが分かった。おそらく船を使って取引する商人だったのだろう。それが今や、犯罪に手を出さざるを得ない事態にまで落ちぶれてしまっている。「どうして」という疑問はもちろん、自分の家の領地でこのようなことが起こっていることがとてつもなく悲しかった。
(今、自分の身分を使わないでどうするの?)
私は親方の方へずいと身を乗り出した。
「ご提案があります」
ランジット領、当主フォーヴの屋敷は不穏な空気が漂っていた。メイドのアガトは青ざめて震え、当主は厳しい顔で考え込み、ヴァリエールはイライラしながら椅子に座る当主を見下ろしていた。アガトは「私の責任でございます、お世話を仰せつかっておりながら…!!」と涙声で謝罪した。ヴァリエールはぶっきらぼうに「あいつ個人の判断だ」と答えたが、アガトではなく、当主に向けて言葉を発していた。
「今何時だ…」
「18時でございます」
フォーヴはついさっき一番上の兄の家から戻ったところだ。家に入るとすぐにサレナがまだ戻らないと知らされた。ひょっこり帰ってきそうな時刻でもあるが…近頃の領地の様子を考えるとあまり楽観視もしていられない。ヴァリエールは既に自身で探しに行ったが、見つけられなかったと苦々し気に報告した。フォーヴは決断をした。
「領内に指令を。サレナを探せ」
ヴァリエールとアガトはすぐに屋敷を出て、親戚、軍等に連絡を回すよう手配しに行った。フォーヴはいずれ集まってくるであろう兄弟・親族・高官たちを待つために留まった。取り越し苦労であることを心の底から祈った。
フォーヴが屋敷に戻る少し前。港に泊まる大きな商船に男が一人手紙を届けた。商船の男たちは怪しんだが、手紙を届けた者は頼まれただけで中身は知らないと答えた。手紙は幹部に届けられた。
「は?次期王の婚約者を誘拐した?」
幹部たちは手紙を広げ、内容を確認したが、一同は困惑した。
「すげえ、身代金を5千万イール寄越せだと」
「どうする?本当だったら俺たち…」
「バカバカしい。ここはランジットの領地だ。まずあっちにゆすりをかけるのが常套だろうが。それにはったりだったら5千万イールどぶに捨てるんだぞ?」
「面白い噂も聞いている。婚約は次期王の方が拒否してるそうじゃねえか」
「袖にされる人間に大金が積めるかよ」
幹部たちは、せせら笑いながら意見を一致させた。
「本当に、うまく行くんだろうな」
親方は低い声で私に問いかけた。私は力強く頷いた。一時間ほど前、手下のひとりに手紙を持たせた。宛先は国との取引で最もシェアを占めている船だ。そして、彼らが商売できなくなった原因。攫った張本人として一番心が痛むのか、部屋にジルと私だけになった間に、彼は私に教えてくれた。
聞けば彼らはもともと穀物を輸入し、問屋に卸す仕事をしていたらしい。それを、ジルの言葉を借りれば『横やりが入った』。同じ港で取引を営む商人が、彼らの商品の出どころが怪しいと言うのだ。信用第一の商売についた傷は浅くなかった。口を出したのが国と大きな取引をする商人たちだったことも大きく影響した。そこからはどんどん顧客が減り、転落の一途を辿ったそうだ。彼らが扱っていた商品はその後、横やりを入れた連中が攫って行ったらしい。「僕たちは後ろ暗い取引など一切していない」とジルは語った。
「やり方が汚いんだ…。直接的にケチをつけてくるわけじゃない…。少し、相手が怪しむようなことを言えばそれでおしまいさ。特に、新参者の業者は信用が薄いから…。自分達では主張はしないが、周りは奴らの後ろに『国』を見る。国以上の信用があるか?親方が…こんな目に遭うなんて…僕たちは我慢ならない…」
彼は親方に恩があるらしく、親方の身を案じていたが、本人も本来こんなことができる人間ではないのは明らかだ。叔父さんたちが対策を講じていたのはこのことだ、と嫌でも理解した。恐らく、被害を被っているのは彼らだけではないはず。
手紙の返事を待ちながら思案に暮れていると、バタバタと階段を駆け上がる音が聞こえてきた。私と親方は顔を見合わせた。
「へ、返事がありました!!」
勢いよく部屋のドアが開き、手紙を持たせた手下が戻ってきた。
お読みいただきありがとうございます!