彼の周りにあったもの
試験が終わるとアッと言う間に学園は休暇モードになった。長期の旅行に出る子もいれば、王都でゆっくり過ごす子もいる。私はどちらかというと基本的には前者のタイプだ。リュイが後学のために国を回るのにお供していたのは別として。あのイベント、去年は辛うじて誘われて付いていったけれど…。
(今年は無いな。絶対ない。あってもリュイの意志じゃなく、コールデン家の誰かが無理矢理組ませたものだろうから、それはもう最悪なツアーになるに違いない…)
私は教室の窓から見える大きな空にゆらゆらと流れる雲を眺めた。穏やかな日だ。
授業が終わり、ヴァリエールはひとりふらふらと学園の庭を歩いていた。他に人もおらず、草木が揺れる音だけがしている。適当なベンチに腰を下ろし、傍にやってきた昆虫を手にする。
幼いころ、自分で捕まえたちょっとその辺ではお目にかかれないほどの大きなカマキリを厚意でサレナにやったら大泣きされたことを思い出した。丁度一緒に居たリュイがサレナの前に立ち、ヴァリエールのことを敵のように睨んでいた。三人は歳が近く、屋敷も近いためよく共に過ごしていたが、リュイはヴァリエールとはあまり仲が良くなかった。
リュイとサレナが共に中等教育を受けているとき。家庭教師の講義を近くで聞いていたヴァリエールは彼らよりも格段に呑み込みが早かった。早々につまらなくなってしまったヴァリエールは二人を置いて外で遊んでいた。外遊びにも飽きると、部屋に再び現れる。ヴァリエールの奔放さに眉をひそめた家庭教師は、年長者なのに落ち着きがないことを責め、勉強する気があるのなら大人しく共に授業を聞くようにと窘めた。するとヴァリエールは、年下の二人が悪戦苦闘していた数学の難問をサラサラと解いてしまった。二人が挑戦していたのは普通ならばもっと後に学ぶ問題で、ヴァリエールでさえさっき初めて習うものだったのに、と家庭教師は目を剥いた。サレナは純粋にヴァリエールを褒めたが、リュイは面白くないらしく、不貞腐れた。
ヴァリエールは年下の彼らによく構った。色々な洞窟や森を探検する物語に二人が喜んでいれば、実際に連れて行ってやろうと思った。幼い二人を両脇に抱えて近くの森の中の洞窟に向かった。実際の森は薄暗く、たまに横切る何かの動物はリュイとサレナにとっては怪獣同然で、鳥の声は化け物の悲鳴に聞こえた。洞窟の奥は光が届かないほど深く、何かが突然出てくるのではないかと、二人は寄り添って震えていた。ヴァリエールからすれば、いつもの遊び場の近所の森だったのだが、年少者たちは別世界にでも来てしまったかのような絶望的な顔をしていた。サレナはもちろん大泣きするし、リュイもサレナの前で泣かないように頑張っていたが明らかに怯えていた。二人を抱えて屋敷に戻ったとき、色々な大人から雷が落ちたのは言うまでもない。保護された二人は安心を求め、ロゼに抱き着いていた。
リュイはそれこそヴァリエールのことを蛇蝎の如く避けたがったが、サレナの方はリュイがいないとき、トコトコとヴァリエールの後をついて歩いた。その結果サレナは大泣きする羽目になり、ロゼにヴァリエールが叱られるということも珍しくなかった。ヴァリエールはサレナをあやしているつもりだったが、周囲にはいじめているようにしか見えない時もしばしばあった。唯一、サレナの父親だけはヴァリエールの意図を汲んでいたようで、方法は責めたが、行動自体を咎めることは無かった。
三人が成長するにつれて変化が訪れた。リュイは気がついていないようだったが、サレナのリュイに向ける視線が熱っぽくなったことにヴァリエールは気が付いた。そして、自分との態度の違い。サレナがリュイに想いを寄せていることは明らかだった。
ヴァリエールは初めて、つまらないと思った。何もかもがどうでもいいことのように思われた。サレナが美しくなるにつれて、ヴァリエールの退屈は増していった。そして、二人よりも先に学園という箱庭に通過儀礼的に放り込まれ、息苦しさに耐えかねたヴァリエールはとうとう脱出した。
もう戻ってこないつもりで出てゆき、ヴァリエールが出会った世界は素晴らしかった。王都にはない自然、人の生活。足の向くままに知らない土地に赴いた。野宿さえも厭わなかった。好きなところに行き、好きなものを食べ、好きなものを着、名前も知らない相手と話すのはヴァリエールにとって自由そのものだった。誰も自分を縛るものは無いと思っていた。サレナの父親から手紙が届くまでは。
自分を監視していたのか、それとも手紙に書いてる通り心配していたからかは分からないが、ヴァリエールの居場所はサレナの父親に把握されていた。丁度長く逗留している宿に早馬がやってきた。辟易した気持ちで手紙を開けたが、ヴァリエールは読み終わると迷いも無く「帰る」と言って宿を出た。
コツリと革靴が地面に鳴る音がした。ヴァリエールは手にしていた昆虫を手放し、顔を上げた。
「ごきげんよう」
ヴァリエールの前に現れたのはバーニーだった。ヴァリエールはかすかに笑い、「どうした」と尋ねた。バーニーは予想していた不愛想とは異なり、意外と穏やかなヴァリエールの対応に内心驚いた。
「何していらっしゃるの?」
要件を後に回すもったいぶった作法にヴァリエールは我慢強く答えた。
「今日は空が穏やかだからな。人ばかりの中は疲れた」
「まあ、リラックスしていらっしゃったのね。お邪魔してごめんなさい」
バーニーは光を味方にし、白い肌と金髪の輝きがより美しく見える角度で立ち直す。髪が光に透けてきらめいた。
「いや…バーニー嬢、用事があって来たんじゃないのか」
「うふふ、いやあね、ちょっとお話したくてお声をかけただけですわ。丁度お見掛けしたから」
「先日言い争った仲だ。避けられるなら分かるが?」
「そう!ヴァリエール様、ご優秀で私びっくりしてしまいました」
リュイの背に隠れ、嫌悪感を前面に出していた人間とは思えないほど、バーニーは朗らかに褒めた。
「サレナには敵わなかったな」
「あら、一問差ではありませんか。次はきっと一番におなりですわよ。でも…試験の順位では本当の賢さは測れないと思いません?」
「…どういう意味だ?」
試験の結果も微妙だった彼女が言うのはどうだ、とヴァリエールは笑い出しそうになったが、もっと面白い話が聞けそうだと察し、顔を引き締めた。
「ヴァリエール様のことはとっても賢い方だと思いますのよ。お話してみてすぐに分かりましたわ。でも…私、サレナ様は…。ただただ、やれと言われたことを受動的に機械のようにこなしているだけにしか見えませんの。彼女の行動は全て命じられたものです。王妃として望まれるものだからといって、そんなお人形のようにしていては本当の知恵とか賢さとか、自身の意志の強さとか、必要なものは揃わないということに気が付かないといけないと思いませんか?」
「成程」
ヴァリエールは深く頷いた。意思の強さが無ければこなせない厳しい要件であるという考えはないようだ、と感心した。そもそも、初めからサレナのことを自分より下と疑っていないのだろう。ヴァリエールの相槌を、自身の意見の肯定と受け取ったバーニーはわざとらしく驚いて見せた。
「あっ!ヴァリエール様はご親族でいらっしゃいましたわね。すみません…でもご本家とは少しばかり離れていらっしゃるのでしたっけ?」
「そうなるな」
「あなたほど能力のある方が、隅っこで終わるだなんて…」
勝手に日陰で生きることにされたが、ヴァリエールは腹を立てるどころか、面白くて仕方がなかった。よくここまで好き勝手人のことを口にできるものだ。ヴァリエールは吹き出しそうになるのをこらえるのに必死だった。
「私、卒業後、貴方を重用するようリュイにお願いすることができますわ!」
ヴァリエールはその言葉に盛大に噴き出した。バーニーは突然のことに目を丸くした。
「ははははは!!それはありがたい!あいつは俺を昔から毛嫌いしているからな。是非そうしていただきたいものだ。そのときまでバーニー嬢がリュイにしがみついていられるならな!!」
「な、なな何て失礼な…!!」
バーニーはわなわなと震え、燃えるような目でヴァリエールを睨んだ。
「男を落とすには、色仕掛けと出世の話が常套手段か?世界は広い。それだけでは通用しないこともあるとよく覚えておいた方がいい」
「せっかく私が厚意でお声をかけたというのに!!!失礼します!やっぱり無礼で野蛮でどうしようもない方だわ!!」
バーニーは荒っぽく背を向けると、足早に庭園を去って行った。ヴァリエールの笑いはしばらく止まなかった。
「サレナもあの位愚かだったら、もっと生きやすかっただろうに」
親戚とは思えないほど自由とかけ離れたはとこのことを思いながら、ヴァリエールはゆっくりと立ち上がった。さわさわと、ヴァリエールの髪が優しい風にたなびいた。
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